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阿部一二三と丸山城志郎、五輪後も続く“ライバル物語” 最強の柔道家が並び立つ意味

五輪出場選手のなかで際立っていた阿部の戦いぶり

 それも無理はない。4年に一度、いや東京五輪は5年に一度となった大舞台だ。ライバルも少なくないなか、代表争いを続け、その末に代表となり迎えた大会でも、多大なエネルギーを費やした。その反動は決して小さくない。

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 過去の五輪でも、大会ののち、一時的にせよ何にせよ、燃え尽きてしまう選手は見られたし、モチベーションをどう保つかに悩んだり、あるいは休養を選択する選手はさまざまな競技で珍しくはなかった。五輪に懸けるエネルギーや時間を考えれば、自然なことでもある。

 それを思えば、なおさら、阿部の戦いぶりは際立っていた。

「五輪王者としてプレッシャーはありましたが、金メダルを獲って自分に自信がついたと思います。王者になったからこそ、さらに強い気持ちを持って戦えるようになりました」

 試合後、阿部はこう語っている。その言葉は、金メダリストになったことで得た糧が、今回の戦いに生きていたことを示唆している。

 それとともに、印象深い言葉があった。

「自分が五輪チャンピオンだと証明するために闘いました」

 丸山との何年もかけての代表争いの激しさ、拮抗した勝負を続けたことは、誰よりも阿部が肌身で知っている。

 だからこそ、五輪チャンピオンになった誇りをかけて、勝たなければいけないと思った。阿部もこう語っている。

「やっぱり気持ちは入りましたし、絶対に負けられない。何がなんでも勝ち切るんだという気持ちでした」

 負けられないという思いは、この日だけのものではない。勝つために準備もしてきただろう。

 阿部は2024年のパリ五輪での連覇を目標に掲げてきた。次に目指すべきことも明確に見えていて、しかも年齢的にまだ若いこともあり、気持ちが途切れたり緩んだりする余地が少ないということはある。

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松原 孝臣

1967年生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わり、再びフリーとなってノンフィクションなど幅広い分野で執筆している。スポーツでは主に五輪競技を中心に追い、夏季は2004年アテネ大会以降、冬季は2002年ソルトレークシティ大会から現地で取材。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)、『フライングガールズ―高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦―』(文藝春秋)、『メダリストに学ぶ前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)などがある。

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