「型破り人生」からの公立中学サッカー部指導 浦和の名伯楽はなぜ40歳で教師の道に?
塾講師、旅行代理店を経て知人と起業
当地の語学学校では英語のほかイタリア語も学び、半年弱はローマでも生活した。サッカー観戦は日常の大事な習慣でもあった。現在のプレミアリーグではなく、名称がイングランドリーグという時代だ。「しょっちゅう見ていたアーセナルは、留学した頃にまた強くなっていたんですよ。チェルシーなんか今とは全然違い、2部落ちもあって弱かったなあ」と35、6年前を懐かしむ。
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1988年に当時の西ドイツで開催された第8回欧州選手権は、オランダ-ソ連の決勝だけ入場券が手に入らなかったが、とりあえずミュンヘンのオリンピックスタジアムに出掛けた。そこで考えたのが自分で服を切り裂き、オランダのフーリガンにチケットを取られたという“狂言”を演じること。警察官に訴えたら、まんまと成功した。「生きる力ですよね」とニンマリすると、「まだ日本人がほとんどいなかった時代に、(マルコ・)ファン・バステンのスーパーゴールを生観戦できて嬉しかった」と振り返る。
89年9月、金欠と郷愁に駆られてやむなく帰国。国際電話の通話料は高いし、SNSなど存在せず、日本の情報も入手できない時代だ。
帰国後はすっかり身に付いた英語を生かし、塾の講師をしていたが、間もなく旅行代理店の東急観光(現・東武トップツアーズ)に就職。外国人専門の部署に配属され、来日した外国人観光客のアテンドが主な業務で、海外に出張して営業をこなす役割も担った。やりがいを感じながら勤めていたものの、海外赴任を命じられた30歳で退社する。
神立さんは26歳の時、出身団体の岸町少年団で2年間コーチを任された後、母校の浦和白幡中の外部コーチに就任。9年間指導した。
当時はサッカー専門の顧問が不在で、保護者から少年団に指導者派遣を依頼されたのだ。外部コーチのはしりでもあった。「人に何かを教えることが楽しくなり、興味が湧いてきた時だったんです。海外に転勤したら指導できなくなりますからね、すっぱり辞めました」と言うのだから、割り切りの早い人だ。
今度は知人と2人で会社を立ち上げ、日本では先駆けというネックウォーマーを輸入し、ニット帽や手袋と一緒にスキー場で販売。ワゴン車に積んで全国を走り回った。当時は競合する業者も少なく、業績は右肩上がりで伸びていった。