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王者・羽生結弦が誕生した日 19歳で「怖さを知った」五輪、金メダルを呼んだ心の強さ

完璧だったSPと「体が動かなかった」フリー

 オリンピックで2人はどのような演技を見せるのか。羽生は団体戦のショートプログラム(1位)を経て、個人戦のショートに臨む――その演技は、完璧すぎるほど完璧だった。すべてのジャンプを成功させたのは無論のこと、表現でも魅了し得点は101.45点。ショートでの史上初の100点超えを達成し1位となった。

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 迎えたフリー。羽生は冒頭の4回転サルコウで転倒し、3つ目のトリプルフリップも決め切れない。それでも、気持ちを折らすことなく懸命な滑りを見せる。

 得点は178.64点。自己記録に遠く及ばない点数で、総合でも280.09点にとどまった。

「体が全然動かなかったです。(直前の)6分間練習から焦っていました。はっきり言って自分の演技に満足していません」

 滑り終えた後の言葉に窺えたのは、オリンピックという舞台ならではの緊張を強いられたことだった。「オリンピックの、本当の怖さを知りました」とも語った。

 納得のいかない演技だったとはいえ、勝負は別。滑走順が羽生より後ろだったチャンもまた、ジャンプに乱れが出た。結果、羽生が優勝を飾ることとなった。

 試合の翌日、羽生は語った。

「昨日の演技には納得していませんけど、最終的には金メダルという評価をいただいたことを誇りに思います。僕はスケートが好きなのでまだまだ現役を続けます。日本男子らしく、敬意の気持ちを忘れないようにありたいと思います」

 目指す演技に到達しなかったことへの思いとともに、金メダルを素直に受け止める心持ちがそこにあった。

 羽生、チャンに限らず上位選手が4年に一度の大舞台の重圧と向き合うなか、羽生が勝ちえた理由はなんだったのか。羽生の言葉に手がかりがある。

「日本男子がものすごくレベルが高くなっていて、どのようにしてまずオリンピックの切符を勝ち取るかという状況がありました。自分を高めなければならない状況になった時に、人はすごく練習し努力する。追い込まれた状況だったからこそ、僕は成長できたと思います」

 真摯に自身を高めた日々こそ、最後の最後に生きた。

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松原 孝臣

1967年生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わり、再びフリーとなってノンフィクションなど幅広い分野で執筆している。スポーツでは主に五輪競技を中心に追い、夏季は2004年アテネ大会以降、冬季は2002年ソルトレークシティ大会から現地で取材。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)、『フライングガールズ―高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦―』(文藝春秋)、『メダリストに学ぶ前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)などがある。

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