創部数か月で選手2人に… 埼玉医大G、ニューイヤー駅伝出場に導いた40歳監督の信念
2度目の挑戦で東日本15位、ニューイヤー駅伝が「現実的な目標に変わった」
「監督の立場からすれば1秒でも速く走れるチームにしたいが、セカンドキャリアを考えると今のうちに仕事を覚えてもらいたいので、学校の方針には共感しますね。アスリートらしく元気に礼儀正しく、時間厳守でほかの仕事も手伝ってこそ、私たちの存在意義があるのです」
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そんな学校側の考えに賛同しつつも、部の強化には譲れないこともあり最低限の要求はしてきた。
18年にはフルタイムの勤務時間を短縮してもらい、午前8時半から午後2時までとし、合宿や遠隔地での試合出場も認めてもらった。
ニューイヤー駅伝の予選会にあたるのが、毎年11月に埼玉で行われる東日本実業団対抗駅伝で、12位以内に入れば出場権が与えられる。
東日本には新たに5人が加入した創部2年目の18年に初出場し、柴田監督も4区を走ったが3時間55分57秒で19位。12位とは6分56秒もの大差がついた。翌年はメンバーを2人入れ替え、監督は外国人区間の2区を担当。前年を8分も更新する3時間47分55秒で15位に上がり、12位とは1分2秒差まで接近した。指揮官は「漠然と思い描いていた夢のニューイヤー駅伝が、現実的な目標に変わった」と手応えをつかむ。
そこで外国人選手の加入を学校側と交渉。箱根駅伝出場に向け、留学生を抱える武蔵野学院大学から20年春、ケニア人のワンブア・タイタスを獲得した。昨年11月の日本体育大学長距離競技会男子1万メートルで、27分18秒89の日本学生新を記録したケニア人留学生、ワンジク・チャールズカマウも武蔵野学院大の2年生だ。
20年の東日本は1区で17位と出遅れたものの、2区タイタスが期待に応えて区間4位の快走で9位に浮上。その後順位を落としたが、5区島田匠海から最終7区まで10位を堅持し、3度目の挑戦で悲願のニューイヤー駅伝出場を達成してみせた。
柴田監督がスカウトした加入4年目の島田は、専修大学では実績を残せなかったが、社会人になって急成長。「個人の特長やその時の状態に応じた練習メニューを提供してもらい、最高の調整ができてタイムも伸びました」と指導法に感謝する。
新型コロナウイルスの感染拡大で、20年4月7日に埼玉県に初めて緊急事態宣言が発出されてから約2か月間は合同練習を自粛。個人がルールを順守しながら走り込み、東日本を突破した余勢を駆ってニューイヤー駅伝でも36チーム中20位と奮闘した。