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「輝ける人はほんの一握り」 大久保嘉人が感謝、サッカー人生を変えた“出会い”とは

オンラインでの取材で風間八宏元監督への感謝を語ったセレッソ大阪の大久保嘉人(写真はスクリーンショットより)
オンラインでの取材で風間八宏元監督への感謝を語ったセレッソ大阪の大久保嘉人(写真はスクリーンショットより)

川崎時代は「サッカーは簡単だなって思った」

「得点を取っていたからゴールに専念できたねって言われたけど、そうじゃない。自分は、神戸の時とまったく同じ動きをしていたんですよ。ボランチのところまで下りてきてボールに触り、ゲーム作りに参加していた。ただ、神戸と川崎の違いは、俺が下がった時に憲剛さんや僚太とかがそのスペースに入って、ボールを受けて、ゲームを作ってくれた。そうして最後にゴール前に俺が入って行って点が取れた。チームワークが機能していると、誰かが空けたスペースに誰かが入って、どんどん攻撃を繋いでいく。それを風間さんはずっと言っていた。それができていたし、だから、川崎の時は本当に楽しくて、話しながらでもサッカーができた。サッカーは簡単だなって思った」

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 31歳で得点王になり、さらにサッカーが上手くなった。普通は年齢を重ねると運動能力が落ち、自分がイメージするプレーとピッチ上での現実のプレーに乖離が始まり、苦しむことになる。特にFWは、瞬発的な動きとスピードが要求されるため、それが落ちてくるとシュートが上手くてもゴールを量産することは難しくなる。

 だが、大久保は国見高校時代に培った運動能力は衰えるどころか、さらなるキレを見せ、30歳を超えてもなお選手は進化できることを結果で証明した。

「30歳を超えても成長できたのは、基礎を見直すことができたこと。それも風間さんのおかげだよね。プロになる選手は、中高時代はエース的な存在だし、みんな上手いんですよ。でも、輝ける人って、ほんの一握り。それは本人の努力もあるけど、俺は自分が求めているサッカー、そして自分のサッカーに合う監督に出会えるかどうかだと思う。出会いは運でもあるけど、輝く選手になるにはそれも必要。俺は風間さんと出会えなかったら、得点王は無理だった。だって前年、神戸で4点しか取れていなかったから。やっとこういう人に会えた。それは、自分のサッカー人生の中で一番うれしい出来事だった」

 師とも言える指導者と出会い、技術が高く、共通意識を持った仲間とともにプレーできた。大久保にとって川崎の4年間は、20年間のサッカー人生の中で最も楽しい時間だった。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

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大久保嘉人


 1982年6月9日生まれ、福岡県出身。国見高3年時に高校3冠を達成し、インターハイと高校選手権では大会得点王を獲得した。2001年にセレッソ大阪でプロキャリアをスタートさせると、闘争心溢れるプレーで存在感を発揮。03年に日本代表デビュー、04年にはU-23日本代表の一員としてアテネ五輪に出場、10年にはA代表の主力として南アフリカW杯ベスト16進出に貢献した。マジョルカ、ヴォルフスブルクでのプレーを挟みながらヴィッセル神戸に通算6シーズン在籍すると、13年に川崎フロンターレに移籍。1年目でキャリア最多26ゴールを決めると、史上初のJリーグ3年連続得点王の偉業を達成した。今季、古巣のC大阪に復帰し歴代最多となるJ1通算191得点にゴール数を伸ばすも、11月19日に今季限りでの現役引退を発表した。

佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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