「試合中に敬語使ったらぶん殴る」 松田直樹とマリノス黄金時代を生きた3人が語る素顔
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから、もう10年――。
連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」12通目 栗原勇蔵・坂田大輔・那須大亮
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから、もう10年――。
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節目の年に合わせた「THE ANSWER」の連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」。その功績と人柄を語り継ぐため、生前にゆかりがあった選手・関係者らが登場し、命日となる8月4日まで連日、想いを明かす。第12回は横浜F・マリノス クラブシップ・キャプテンの栗原勇蔵さん、サッカー代理人を務める坂田大輔さん、YouTubeなどで活躍する那須大亮さん。ともに横浜F・マリノスの黄金時代を松田さんとともに戦った3人が思い出を語り合い、最後に今もマリノスで活動する栗原さんが代表して天国の松田さんへのメッセージを送った。(取材・構成=二宮 寿朗)
◇ ◇ ◇
――横浜F・マリノスに加入した年で言うと、坂田さんが2001年、那須さん、栗原さんが2002年です。その頃、松田さんは日本代表でもF・マリノスでも守備の中心として活躍していました。
坂田「マツさん、俺の6つ上だから自分が入団したときって24歳。その年であんなオーラを出していたと考えたら、とんでもない人だなって思う。自分たちが24歳の頃を振り返ってもマツさんみたいなオーラは出ないし、出せない(笑)。あの存在感はちょっと特別」
栗原「(F・マリノス)ユースからトップに上がるとき、メチャクチャすごい人だって分かっていたし、あんな人になりたいなって思った。サカティ(坂田)も言ったけど、このチームで歴代最も存在感あるのはやっぱりマツさん」
那須「僕は大学3年(駒澤大学)のときにF・マリノスに入ってマツさんが相手でも『そうは言っても、やれんだろう』って内心思っていたけど、一緒にサッカーしてみてマツさんのすごさはすぐに分かった。あまりにも高すぎる壁がいきなりバーンと立ちはだかった感じ」
――最初はやっぱりおっかなく感じたところあったんですか?
那須「マツさんというよりも当時のF・マリノスって、今じゃ考えられないくらい怖い先輩たちが多かったですからね(笑)」
坂田「分かる、分かる(笑)」
栗原「ほぼ壁を作る先輩ばかりだったから」
那須「マツさんはそのなかでもリーダーシップじゃないけど、闘争心丸出しのプレースタイルだし『先輩も後輩も関係ねぇ』みたいな感じで、怖いイメージというのは最初から特になかった。逆にしゃべり掛けてくれて、思った以上にやさしかった」
坂田「自分の場合は、すぐに話せた感じじゃない。2001年に加入して多少なりとも試合に絡むようになってから、気に掛けてもらえるようになった。『オイ、メシ行くぞ』とか、『オイ、ゲームするぞ』とかね(笑)。普通は後輩から先輩の懐に入っていこうとするけど、あの人は逆。打ち解けた瞬間に、マツさんのほうから懐に入ってきてくれた」
栗原「俺はユースから上がって1年目はベンチにも入れてなかったから、壁を作る先輩たちに当然相手にもされない。そこから試合に絡んだりして、選手として多少認めてもらったときからマツさんからもいろいろと声を掛けてもらえるようになったり、しっかりと話をしてくれるようになった感覚がある。だからもっと頑張って先輩たちに気に入られて、メシに誘ってもらおうとか、アドバイスしてもらおうとか、試合に出ることよりも先輩たちに気に入られるために頑張んないといけないな、みたいな気持ちがあったのは今でも覚えてる」