[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

0秒03に泣いた最後の五輪挑戦 競泳・井本直歩子、それでも言える「幸せな競技人生」

井本さんの引退を翻意させた橋本聖子さんの言葉とは【写真:松橋晶子】
井本さんの引退を翻意させた橋本聖子さんの言葉とは【写真:松橋晶子】

0.1秒差で逃したバルセロナ五輪、引退を翻意させた橋本聖子さんの言葉

 初めての五輪出場のチャンスは高校1年で訪れる。92年、バルセロナ五輪最終選考。しかし、わずか0.1秒のタイム差で出場権を逃す。

【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら

「気持ちを切り替えるのは簡単ではありませんでした。当時の競泳は中高生がピークの競技。20歳で迎える次の五輪のことなど考えられず、ガラガラと夢が崩れました。5歳からオリンピアンになることは当たり前だと思っていたので、『五輪に行けない今の人生は、別の誰かの人生だ』と思うぐらい、受け入れられなかった」

 現実を受け入れられない強い気持ちが、「次」に向かう発奮剤となる。数か月後、2度目の五輪への挑戦を決めた。

「当時は、大学生で記録を伸ばす人はほとんどいなかった時代です。正直、自信はなかったし、『出られるわけがない』という周囲の空気も感じていました。でも、考えた末、『諦める』という選択はなかった」

 4年後、周囲の、そして自身の予想を覆し、井本さんは15年間、追い続けた目標の舞台に立つ。96年アトランタ五輪出場。自分の人生を取り戻した瞬間だった。

 念願の五輪出場を果たしたのは、96年アトランタ大会。井本さんは個人、リレーの2種目で予選落ちしたものの、女子4×200mリレーでは4位に入賞。しかし、この結果は満足のいくものではなかった。

「人生をかけた集大成の大会だったのに、力を発揮できず、メダルも獲れなかった。これで引退だと思っていたので、すごく悔しくて。帰国する飛行機のなかでも、めっちゃくちゃに泣いていました」

 そんな彼女に声をかけたのは、当時、自転車競技の選手として出場していた橋本聖子さんだった。『後悔が残っているなら、競技をやめちゃダメ』。その言葉を聞き、もう一度、チャレンジしようと決めた。

「今だったら考えられないのですが、当時の感覚では『もう20歳のオバサンなのに、まだ現役を続けるなんて!』と頭を過りました(笑)。でも、相手は7回五輪に出場する選手です。まったくその通りだなと思い、続けようと決めました」

1 2 3

長島 恭子

編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)など。

W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集