【今、伝えたいこと】「誰か来てください!」 五輪当日に負傷棄権、モーグル・伊藤みきが高校生に届ける声
大切な自分だけの物語「人生のゴールは、誰かが決める大会ではない」
中学、高校生は進学へのアピールチャンスも失った。「自分が一生懸命頑張っていることの証明になる機会。奨学金にも関わってくるので、実際に競技寿命が短くなる子もいると思います」と危惧する。一方、自分だから伝えられる声がある。
勝つことも、負けることすらもできなかった選手たちへ。“ゴールとの付き合い方”について、言葉に優しさを込めて投げかけた。
「自分の人生のゴールは、誰かが決める大会ではなく、もっと幅の広いところにあるんじゃないかな。インターハイがなくなったことは本当に大きな喪失感があって、周りで見ている方にも喪失感があると思います。だけど、だからこそ、選手がどういう気持ちで次に取り組んでいくか、次にどういう人が大化けするのか、ストーリーは繋がっている。インターハイがなくなって終わるわけじゃない。
一生懸命に取り組んでいる人に対し、周りはずっと応援し続ける。一生懸命な姿を見せることこそ、アスリートなのかなと思います。ゴールを決めるのは自分自身だから、自分で目標設定をする。若いうちに目標がなくなってしまい、これが最後の試合だったかもしれない。だけど、人生のゴールをつくる練習だと思って、取り組む気持ちになってもらえたら。そういう人が一人でもいたらうれしいです。
機会を失われた自分だから見える景色があるはずです。ある意味、特別な場所に立っていると思うので、彼らにしか見えない景色を思う存分堪能して、次に飛び立つ助走にしてほしいなと思います」
自身は昨年5月に現役引退。全身全霊を懸けた競技人生に幕を下ろすと、手持ち無沙汰になった。「ゴールがなくなったので引退しましたが、半年くらいは何に走って行けばいいのかわからなかった」。目標も特にない。ただし、睡眠や食生活の乱れ、運動不足は「何かやりたいと思った時に足かせになる」と捉え、トレーニングを日々のルーティンに入れた。
無理やりゴールをつくる必要はない。でも、いつか出会うかもしれないゴールのために準備をしておく。
「やりたいこと、なりたいものが明確に見えていませんが、興味を持ったことにチャレンジできるよう、心身ともに健康でいたいです。“やりたいことに出会う自分”を作っておこうと思っています。今は一生懸命、自分が目標に向かって取り組めるものを探す旅に出ている。農業はその一つなんですよ」
2018年に入籍した夫と札幌で暮らす日々。感染対策を徹底しながら、ランニングやサイクリングで気分転換をする。さらに地元・滋賀の名物「日野菜漬け」を札幌にいても食べられるように、車で約40分の江別市で農業を始めようと計画中だ。「北海道で農業って夢みたい。北海道の土を触れる喜びみたいなものを得ました」と声を弾ませる。
そして、人生のゴールは明確ではないが、指導者として一つの目標に出会った。
夏季は東京五輪が1年延期となる一方、2030年の冬季五輪招致を目指している札幌市は、地元からオリンピアンを生むために7月から特定の5種目の強化計画を始動させる。伊藤はモーグルのチーフコーチを任された。現状は小学校低学年から中学生が対象で、10人ほどを入れ替えていきながら指導。予算やスケジュールも管理し、環境づくりでもサポートする。
子どもたちに伝えたいことは、技術だけではない。
「あと10年間で何ができるか。それは私にとって一つの挑戦になる。『スポーツは人生をよりよくするものなんだよ』ということは伝えたいですね。負けて不幸になったり、モーグルが嫌いになって辞めたりすることは避けたい。彼らのゴールはオリンピアンですが、私の中のゴールは人間としての成長がそこにあるかどうか。幸福な人をどれだけつくれるかということが、勝負だと思っています」
五輪でメダルを獲れなかった。世界で一番になれなかった。でも、そんな“ないもの”を嘆くより“あるもの”を数える。夢の舞台を直前で失くしたが、大切なものを得た。自分で決めたゴールに向けて、一生懸命になればいい。伊藤みきだから伝えられるメッセージだ。
■伊藤 みき(いとう・みき)
1987年7月20日生まれ。滋賀県蒲生群出身。3歳からスキーを始め、近江兄弟社高3年時にトリノ五輪で20位。バンクーバー五輪は12位。2013年にW杯猪苗代大会で初優勝。同年世界選手権はシングル、デュアルの2種目で銀メダル。平昌五輪出場はならず、19年5月に現役引退。
(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)