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日本が韓国のライバルになった日 「アジアで最もテクニカルなチームに変貌した」

「日本がアジアで最もテクニカルなチームに変貌していた。ものすごくショックで、しばらくチーム内でも誰も口を開くことがなかった」――ホン・ミョンボ(元韓国代表)

1993年W杯アジア予選で日本に敗戦、ホン・ミョンボは「ひどく落ち込んだ」と回想

「日本がアジアで最もテクニカルなチームに変貌していた。ものすごくショックで、しばらくチーム内でも誰も口を開くことがなかった」――ホン・ミョンボ(元韓国代表)

 韓国は世界に出て行く上で、日本にとって常に大きな壁だった。特に日本が1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得してから低迷期に入り、一方で韓国がプロ化を実現する1980年代は、完全に力の差が浮き彫りになった。

 例えば1984年には、森孝慈監督率いる日本代表が初めてソウルで勝利を収めるが、対戦したのは韓国のBチームで、主力選手たちはゆっくりとスタンドから観戦していた。当時の日本代表ボランチだった宮内聡氏などは、「まず、あいつら(主力)を引っ張り出さなくちゃ」と話していたそうである。

 だが日本がJリーグ創設へと動き出し、代表チームにもオランダ人のハンス・オフト監督を据えると、様相が一変した。冒頭に記したのは、1993年アメリカ・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選で日本に0-1で敗れたことに関して、韓国代表DFホン・ミョンボが話した言葉である。

「もちろん、Jリーグができてブームが起こっていることは知っていました。でもそれまでは、日本が相手なら1対1でも組織としても、すぐにゲームを支配することができた。ところが日本はいろんな部分で成長していて、最もテクニカルなチームに変貌していた。

 DFの立場からすると、日本の選手たちは、とても捕まえにくい動きをするようになっていた。日本は本当に強くなったんだな、と、それからライバルとして意識するようになりました。逆に私たちは、アジアでNO1の座にアグラをかいていたのか、とひどく落ち込みました」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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