「悪い時に逃げるのは日本人じゃない」 地球の裏から来た闘莉王が日本を愛した理由
昨年、惜しまれつつもキャリアに幕を下ろしたサッカー元日本代表DF田中マルクス闘莉王氏。浦和、名古屋などのビッグクラブを渡り歩き、04年アテネ五輪出場、10年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会16強という輝かしい実績も残し、京都で引退した。その道のりでは地球の真裏、ブラジルからやって来た「トゥーリオ」が「闘莉王」になるまで、日本に抱いた深い愛情があった。
忘れられない「3.11」の記憶、「トゥーリオ」が「闘莉王」になるまで
昨年、惜しまれつつもキャリアに幕を下ろしたサッカー元日本代表DF田中マルクス闘莉王氏。浦和、名古屋などのビッグクラブを渡り歩き、04年アテネ五輪出場、10年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会16強という輝かしい実績も残し、京都で引退した。その道のりでは地球の真裏、ブラジルからやって来た「トゥーリオ」が「闘莉王」になるまで、日本に抱いた深い愛情があった。
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闘莉王が日本にやって来たのは、15歳の時。日系ブラジル人の父を持つ少年は、生まれ故郷・サンパウロの地元サッカークラブ「ミラソル」でプレー中、渋谷教育学園幕張高(千葉)の宗像マルコス望監督の目に留まり、スカウトされた。「母は『反対』、父は『行ってこい』」と両親の意見は分かれたが、最後は日本で挑戦してみたいという思いで説得し、単身来日した。
コーヒー農園で働くために日本からブラジルに渡った祖母・照子さんは日本語堪能だったが、日系3世の本人は日常生活で日本語を話す機会がなかった。言葉は全くわからない。時間にルーズなブラジルの文化で育った当時のトゥーリオ少年は「5分前集合」という部活の鉄則に驚き、文化の違いで苦しんだこともあった。その後、高校3年間でプロの道を切り開き、広島を経て水戸でJ2でリーグ戦10得点とブレークしたプロ3年目の03年10月、20歳で日本国籍を取得した。
厳しい時代を味わってなお、なぜ日本人になりたいと願ったのか。大きなきっかけは、その前年の日韓W杯の国歌斉唱で君が代を聞き、鳥肌が立ったこと。「やっぱり、俺のたどり着く場所はここだな。ここに行きたいな」と思いを募らせたが、来日以来、目の当たりにしてきた日本人の姿に影響を受けたことも大きかった。
「文化の違い、言葉の壁。これはとてつもない苦しい壁だったけど、どんどん日本と日本人のことをわかっていく中で、素晴らしい人たちだと思えてきた。今まで時間にルーズだったり、人に対する挨拶が不十分だったりしたところをみんなきちんとしている。そういう姿勢が素晴らしい。どんなことがあっても助け合おうという姿勢を見ると、やっぱり日本人になりたいなって思った。
ブラジル人と半分半分ではなくて、もう日本の心の方が上回ってきたなと。出会っていく人たちにいろんなサポートをしてもらい、これだけやってもらっているのだから、この人たちにもなんとかしたい。自分にできるのはサッカーだけなので、活躍する姿を見せれば、少しでも恩返しできるんだろうなっていうことがどんどん強くなっていく中で、日本人になるという決断になった」
その決断は、来日する時と同様、母は反対し、父は賛成してくれた。ただ、日本人になるということは、相談する前から自分の中で決めていた。「ただ、報告したかっただけ。2人に反対されたとしても変わることはなかった」というほど、思いは強かった。では、実際に日本人になってみて、変わったことは何だったのか。闘莉王は「責任」という言葉を使って、率直な思いを明かした。
「日本人になったという責任が生まれたかな。恥をかかせてはいけないというところを強く感じた。人間性などをわかっていく上でもっともっと好きになるし、日本人の良さに少しでも近づければいいな、もっとちゃんととしないと、と今でも思っている」