大学駅伝の名門「中央大が終わってしまう」 藤原正和監督、就任1年目に大改革の意図
就任当時の4年生は「変化を求める思考が停止していた」
1年目、藤原監督は大胆な改革に着手した。上級生からキャプテンを選出せず、1年生の舟津彰馬に主将を任せたのだ。大学内外から異論反論が続出し、藤原監督は厳しい声の矢面に立たされたが、やり方を曲げることはしなかった。
――なぜ、1年生をキャプテンに置いたのですか。
「当時の4年生は今までのやり方で予選会を通って箱根を走ってきたので、変化を求める思考が停止していたんです。だから、このままじゃやばいよ、変わらないとダメだよ、という話をしてもピンとこない。今までのやり方でなんとかなってきたし、きっと誰かが走ってくれる、という思考で理解できないんです。自分が責任を取りたくない、失敗したくないという気持ちもあったんでしょうね。『監督が決めてください』と言うんですが、私からしたら『いや、君たちのチームだろ』と。何かを劇的に変えていかないといけない。それには何色にも染まっていない1年生をキャプテンに据えたほうがいいと思ったんです。いろんな批判を受けましたけど、そのくらいチームとして追い込まれた状況で、変化を起こすにはそれしか打つ手がなかったんです」
――舟津選手をキャプテンに置いて、チームは機能したのですか。
「舟津自身は一生懸命にやってくれましたが、チーム全体としては1年生主将への反発は大きかったですね。それでも夏合宿をなんとか形にしていきましたが、箱根の予選会は11番に終わり、大学として87大会ぶりに出場権を失ったんですけど、私とコーチの花田(俊輔)の間では、バトンを受け取った状況から考えればよく11番になれたなっていうのが正直な気持ちでした。これは中央大学の歴史の中で言ってはいけない言葉ですし、頑張った彼らを褒めてもあげられないんですけどね。最初は変化を望まなかった4年生が、予選会ではよく頑張ってくれた。彼らの努力は凄かったなと今改めて思います」
――1年目は、選手とかなり衝突したのですか。
「衝突といいますか、言い合うことがわりとありましたね。夏合宿で16キロ走をした時、当時4年生の相馬(一生)と翌年に入学予定の畝(拓夢)以外は全然できなかったんです。その時、『予選会を突破しないといけないチームが高校生にもやれた練習ができないって、さすがにこれはないよ』と話をした後、4年生の1人が陸上部のLINEで『今日のは練習メニューが悪かった』と言ってきたんです。それは違うだろと思って、『こういう意味でやっていると説明したよね。できなかったのはなぜだと思っているの?』と、LINEで2時間延々とやりとりをしました。このケンカ、いつ終わるんだってみんな思っていたようです(苦笑)」
――その結果、どうなったのですか。
「彼や前日の練習をこなせなかった選手には練習の意図を納得してもらい、翌日に1キロ10本をやりました。そうしたら、それはできたんですよ。『できるじゃん、なんで昨日やらないの? できる準備をしようよ、昨日が予選会だったら落ちているんだよ』と話をして、みんなに練習の意図や力を出し切ることの大切さを説きました」