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部員3人から始まった東京国際大の挑戦 創部10年、箱根駅伝の優勝候補に躍り出た理由

強豪校の合宿を体験、選手の「目の色が変わった」

 大学からは、5年間で箱根駅伝出場を実現してほしいと言われた。入学時の校内放送で駅伝部の募集をアナウンスして集まったのはわずか3名。そこからスカウティングを始め、軸になれる選手を1人でも多く作ることを意識して、チーム作りを進めていった。

――チームに手応えを感じたのは、スタートしてどのくらいだったのですか?

「4年目ですね。最初に入ってきた選手が4年生になった春、青学大と東洋大にお願いをして、2泊3日で合宿所に宿泊させてもらったんです。優勝を争うチームは、どのように生活して、どのように競技に取り組んでいるのか。当時、4年生は自分たちが一番上なので、生活面も競技もけっこうダラダラしていたので、そういうチームを見て、自分たちの甘い部分やすべきことを理解してほしかったんです」

――見て、選手は変わりましたか?

「変わりましたね。合宿所に泊まった選手に話をしてもらい、自分たちの良いところ、足りないところを精査して、最終的に箱根の強豪校と自分たちは何が違うのかを考えてもらいました。彼らは、普段の生活の厳しさや競技に対する選手の意欲の違いを感じてくれたようで、そこから目の色が変わりましたね」

――どういうところに変化がありましたか?

「練習への意欲です。彼らが1年生の時は、20キロを走らせると、終わった後、道に寝転がったり、膝を抱えて休んでいたり、走れなかったんですよ。箱根の予選会は20キロなので、その距離を走れないと話にならないんです。でも、できないことをやらせても選手の力にならないので、まずは16キロから始めようということにしました。16キロを走れるようになって余力があれば、あと4キロだからいけるよなって感じですね。

 そうして距離を伸ばしていったんですが、4年になって寮での経験を経た後、『今日は30キロ走をやろう』と言うと、選手から『いや、監督、今日は40キロやりましょう。ハーフの倍を走れるようにならないと勝てないので』と言ってきたんです。この時、強いチームを見たことの効果を感じましたし、箱根に出られるかどうか分からないですが、予選会では悔いのない、いい戦いができそうだなって思いましたね」

 選手の芯に刺激を与えるのは100の言葉よりも一つの真実を見せた方が容易だ。そうして根付いた変化の芽が着実に成長し、最初の4年生たちが卒業した翌年である2016年、創部5年目で東京国際大は悲願の予選会突破、箱根駅伝出場を果たすことになる。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

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大志田秀次(東京国際大学駅伝部監督)


1962年生まれ、岩手県出身。選手時代は中央大学で箱根駅伝を走り、4年時には8区で区間賞。卒業後は本田技研に進み、86年アジア大会1500mで金メダルを獲得した。引退後は指導者の道に進み、2011年から東京国際大学駅伝部の監督に就任。創部5年目の16年箱根駅伝に初出場、20年に総合5位と短期間でチームを躍進させた。今季も勢いは止まらず、10月の出雲駅伝で初出場初優勝の快挙、11月の全日本大学駅伝でも5位に入った。

佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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