日本サッカー屈指の名将と“アメ”の使い方 「悪い時は友だちがいなくなるけど…」
「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーは、1964年に開催される東京五輪に向けた代表チーム強化のために、ドイツサッカー連盟(DFB)から特別コーチとして派遣された。クラマーは自他ともに認める厳しい指導者で、日本代表選手の中には時に「赤鬼」と呼ぶ者もいた。
激高の先にある冷静さ、“日本サッカーの父”が見せた選手との向き合い方
「本当の友だちは、ずっと見守っているものだ」――デットマール・クラマー(元日本代表コーチ)
「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーは、1964年に開催される東京五輪に向けた代表チーム強化のために、ドイツサッカー連盟(DFB)から特別コーチとして派遣された。クラマーは自他ともに認める厳しい指導者で、日本代表選手の中には時に「赤鬼」と呼ぶ者もいた。
しかし一方で日本の文化を学び、スタッフ、選手たちと寝食をともにして、しっかりと信頼関係を築いていた。
それは1962年、日本代表がマレーシアで行われたムルデカトーナメントの開幕戦で、開催国を相手に2点のリードを守り切れずに引き分けた翌朝のことだった。クラマーは選手を全員集めると「ドアを閉めろ!」と指示し、そこから怒声が響き渡った。
「昨日の試合で、なぜ追いつかれたのか。責任の所在を明らかにしておく。はっきり伝えておくが、今後片山の顔を見ることはないだろう」
戦犯として名指しされた片山洋は、「まるで死刑執行の部屋のようで、もうサッカーをやめようか」とも思ったそうだ。しかしクラマーは、その後もしっかりと関東大学リーグの会場に足を運び、片山が所属する慶應大学の試合を視察し続けた。そして片山を久しぶりに代表合宿に招集すると、後ろから肩をしっかりと捉まえて声をかけるのだ。
「良い時は友だちが増え、悪い時は友だちがいなくなる。でも本当の友だちは、ずっと見守っているものだ」
日大のチアリーディング部やアメフト部などの一件を見ても、指導する側が選手との信頼を構築する前に、一方的に救いようのない追い込み方をしてしまっている。欧州の指導者も、激高した時の口調は日本以上に辛辣だ。だが激高の先に、必ず冷静さや反省がある。徹底してムチで追い込んでしまう旧来の日本の指導者に比べ、明らかに“アメ”の使い方が上手い。