アジア最弱国を変えた名指導者 “日本サッカーの父”が語る「本当の価値」
バイエルン率いて欧州制覇も「日本代表の銅獲得に比べれば、ずっと簡単な仕事」
日本サッカー協会(JFA)が、クラマー氏と特別コーチの契約を結んだのは、今から57年前のことだ。日本は1958年に地元東京で開催されたアジア大会では、グループリーグ最下位(2敗)で敗退していた。6年後には東京五輪が迫っている。どん底の状態で、失敗が許されない大舞台に向けて強化を図るには、もうドメスティックな概念を打破するしかなかった。
当時のJFA会長の野津譲氏がドイツサッカー連盟(DFB)に協力を仰ぐと、紹介されたのがクラマー氏だった。
日本はアジアでも最弱レベルだった。一方ドイツは、1954年スイス・ワールドカップで優勝していた。この大会で西ドイツ代表を指揮したのがゼップ・ヘルベルガーだが、クラマーはその後継者の1人と目される気鋭だった。
つまり、今ならDFBが、ヨアヒム・レーブやユルゲン・クロップあたりを日本に送り込んできたようなものである。
大ベテランのジャーナリスト賀川浩氏によれば「クラマーは指導の天才だった」という。クラマー氏自身は、日本のメディアが「日本代表に基礎を教え込んだ」と評すのに対し、「私が実践したのはそれだけではない」と反駁していたが、いずれにしても日本代表は急変貌を遂げ、東京五輪でベスト8、メキシコ五輪では銅メダルを獲得するのだ。
因みにクラマー氏は、ドイツに戻るとバイエルンの監督に就任し、欧州制覇も達成している。だが「それは日本代表の銅メダル獲得に比べれば、ずっと簡単な仕事だった」と述懐している。