「日本代表監督は男冥利に尽きる」 理想を捨て“不細工なサッカー”に徹した知将の美学
3週間後に延期されたホームゲーム
アジア大会を終えると、守備的な選手を並べ、3バックへの変更に踏み切った。地区予選での当面のライバルは中国。当時は紛れもなく格上の相手で、身体能力に優れた強力な2トップを擁していた。
「守備で一人余らせるというよりは、余裕を持たせたかった」と述懐する。まだ日本には理想を追う実力はない。そう痛感したからこその苦渋の決断だった。
ただし実力が伴っていないのは、ピッチ上の選手だけではなかった。石井は現役の代表監督としては初めてAFC(アジアサッカー連盟)の会議にオブザーバーとして出席している。そこで予選の日程が決まるからだ。石井が希望したのは、対中国戦を最初にアウェーで、翌週にホームで行うことだった。
日程は希望通りに決まり、石井はJFA(日本サッカー協会)の村田忠男専務理事(当時)と手を取り合って喜んだ。ところが現地からJFAに連絡を取ると、東京でのホームゲームの予選開催を拒まれてしまう。同日にはすでに「コダック・オールスター戦」(JSL東西対抗戦)が予定されていた。こうして中国とのホームゲームは、3週間延ばしにされてしまった。
87年秋、石井率いる日本は、アウェーで中国を1-0で下す番狂わせを演じた。
「不細工なサッカーだが、選手がやり通してくれた」
指揮官として、与えられた辛い責務をこなしてくれた選手たちに感謝した。中国の高豊文監督とは旧知の間柄だったが、試合後に挨拶に行くと「ショックで顔も紅潮し、気もそぞろだった」という。もし翌週が折り返しのホームゲームだったら、「(中国の)立て直しは難しかったろうな」と思った。