デーデー・ブルーノ、夢はパリへ サッカー時代の劣等感をプラスに変えた恩師の指導法
選手としては補欠、それでも陸上を続けてこられた理由は
自身も長距離の選手だった山﨑監督も、高校時代、大学時代ともに胸を張れる成績ではなかったという。小出さんに重ねる部分があった。
「高校時代は2軍みたいな選手だったんです。八千代松陰(千葉)で長距離をやっていました。10人目の選手でした。駅伝は7人ですよね。レギュラーじゃなかったんです。国学院大では30人、40人いたら、後ろから3人目か4人目。一番後ろかな? というくらい遅かった」
それでも、陸上を続けることができ、指導者になったのは、当時の恩師の支えがあったからだ。
「高校のときの先生も大学の先生も監督も、誰も『おまえ遅いから部活やめろ』とか『マネジャーやれ』とか言わなかった。最後まで面倒を見てもらった。そんな私からすると、陸上をやりたくてやっているなら高校時代はやらせてあげたい。そういう子たちの可能性を広げてあげるのが私の仕事であり、私の役目だと思いました」
さらに、松本に赴任したときに苦い経験があった。血気盛んだった山﨑監督は、陸上部を指導するや、いきなり失敗してしまう。
「みんな陸上をやりたいと言って陸上部に来たわけじゃないですか。でも、私が長距離しか知らないから、じゃあみんな10周走れってやらせたんです。そしたら……みんな辞めますよね。先生としてもそのときは素人でした」
このとき、残った部員は1人だけ。「その1人が残ってくれたおかげで今がある」。自らも挫折を経験した山﨑監督との出会いが、サッカーで目標を失ったブルーノのわずかな可能性に光を当てたのかもしれない。
ブルーノが課題に向き合い、やる気を見せれば、全力で後押しした。専門外の短距離のことは他校の指導者にも助言を仰ぎ、ブルーノに落とし込んだ。すべてを詰め込もうとせず、長所を伸ばし、伸びしろを残した。サッカーで挫折したブルーノは陸上の楽しさに気づき、日々の努力が結果に結びつくことを学んでいった。
ブルーノは、東海大進学後、松本国際高の後輩たちに、次のようなメッセージを送っている。