トラック運転手も経験 「ニッポンの大砲」山本隆弘、部員2人から始まったバレー人生
大学2年で味わった初めての挫折…コートを離れ、トラック運転手になった過去
入学したのは、全国屈指の強豪・日体大。「自分の心が弱かった。練習が厳しくて、バレーをもう辞めようと思った」。大学2年で人生で初めて味わった挫折。コートを離れ、地元・鳥取に帰った。始めたのは運送のアルバイト。鳥取で荷物を積み、京都までトラックを運転し、届ける。一人の空間で運転も好き。バレーを忘れ、ハンドルを握る毎日を送っていた。
そんな日々が半年ほど続いた頃、いつものように京都に向かう車中。ふと、思った。「このままの毎日で5年、10年先、どうなっているのか」。見えたのは「今と変わらないような毎日」だった。「じゃあ、バレーをやっていた時はどうだったかと考えた。五輪に行きたいという目標があったじゃないか」。胸の奥底から、かつて燃えていた情熱がふつふつとたぎってきた。
「人生一度きり。後悔だけはしたくなかった」。頭を丸めて帰京し、コートに戻った。一度は逃げ出した人間。最初は全く相手にされず、プレーさせてもらった。それでも、ボール磨き、コート拭き……下級生がやるべきこともこなし、ようやく認められ、コートに立つことができた。
そこからの人生も激動だった。実業団のパナソニックに入社後に肩を故障し、選手生命の危機を迎えた。医者に「あなたの肩はスパイク2本が限界」と言われながら、リハビリを乗り越えると、両親、チームの反対を押し切り、日本人初のプロ選手という道を選んだ。その先に03年のワールドカップで日本人初の得点王&MVP、08年北京五輪出場という輝かしい未来が待っていた。
「私の座右の銘に『志あるところに道ありき』という言葉がある。肩は確かに爆弾を抱えていた。でも、とことん追い込んだ方がバレーと向き合えると思ってプロを選んだ。『成功しなかったらどうする』『現役を終えた後は何するんだ』と反対された。ただ、社員として残ったら、バレーができなくても残れるという甘えが出て逃げてしまう。その時点で自分はおしまいだし、オリンピックという夢は叶わなくなっていた。心に秘めた志をしっかりと持って、諦めずに進んでいけば、夢に必ず辿り着ける。だから、自分にとって、この座右の銘は現役時代も、そして今も、とても大切にしている言葉です」
生徒たちは深くうなずき、大きな拍手とともに1時間の講演は幕を閉じた。