「走り」は人をどう幸せにするのか 五輪最終日、“走らず嫌い”の日本人への提案
“走らず嫌い”が生まれる背景に教育システムの根深い問題
走りは基本的な運動動作であり、幼少期に誰もが通る道でもある。水泳やバスケットボールは体育の授業に限られるが、走りは運動会に徒競走が用意され、誰もが向き合うこと。そうした過程から“走らず嫌い”が生まれる。
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「統計では、運動会が嫌いだった子供が4割くらいいると聞きます。足が遅い自分が公衆の面前に晒される、大会に向けた準備が面倒くさいというところも含めてのようですが。加えて、学校体育の評価の仕方は、陸上競技でいったら『足が速い』が一番の評価を受ける。『頑張っている』は評価の対象じゃない。かつて、フィンランドの関係者が日本の小学校を見に来て、マラソン大会で順位を付けているのを見て驚いたと聞きます。
例えば、米国のある学校では心拍数にフォーカスして評価するシステムがあります。心拍数を測れる機械を使って持久走をやる。その時にすごく後ろの方を走っていても、走り終えた後の心拍数がかなり上がっていたら、その子は『頑張っている』となり、評価してあげる。反対に、運動能力が高く、いくら先頭を走っていても実際には手を抜いていたら、心拍数はそれほど上がらない。それは評価が低くなるという仕組みです。
その効果は運動に限らない。
「さらに、子供の健康増進のための取り組みであるとともに、学習前に有酸素運動を行うことで集中力、記憶力が高まるという学習効果を一番の目的として行っており、実際テストの成績が上がったという実績に結びついているそうです。運動能力を評価する体育ではなく、学業に好影響を与えるための体育と言えます」(伊藤)
日本の教育システムの根深い問題が、人間の生涯の「走り」に与える影響は大きい。
「『速い』や『うまい』だけで評価されてしまうと、いくら頑張って成長しても評価を受けられなかった人が生まれます。走りの領域では小学生のうちは体の成長の個人差が大きいので、身長が高い、筋肉量が多いという理由でタイムが出る人もいます。そんな理由で、身体が小さい子は自信を失う。学校体育もそうじゃない仕組みを作っていく必要性を感じています。
例えば、僕らのかけっこ教室はこんなスタンスを取っています。『人によって速い遅いがありますが、まずは走り方を良くすることで今の自分よりも速くなれたかどうか、自分自身と比較するところに評価軸を持ちましょう』と、そういうメッセージで子供たちに接しています。その上で、フォームの変容(定性的な評価)とタイム測定(定量的な評価)と両面からアプローチします。
タイムも50目メートル走だけでなく、ケンケン、スキップなど多様な評価軸を持ちます。そうすることで自分の成長が様々な角度から実感できます。まず評価の仕方を変えてあげないと、食わず嫌いと同じように、ちょっとだけ触れて走りが嫌いになってしまう子が、どんどん増えるんじゃないかと感じます」(伊藤)
「僕も小学校の時は手を抜いても勝てるくらい足が速かったです。やはり速いだけで評価されました。でも、伊藤が挙げた逆のパターンで、僕は中学校で周りの成長期のタイミングとぶつかり、いきなり足が遅くなって評価が逆転してしまった。自分なりに頑張っているのに。そうなると、かつての僕のように早熟の子は早熟の子で落差、落胆を感じることがあるのではないかと思います。
今は自分のベストを評価する教育システムではない。遅咲きの子、例えば、早生まれの子が成長の差で『はい、勝てませんでしたね』『ビリでしたね』でスポーツ嫌いになる理由にある気がしています。小学校時代に評価されたのに、中学に行った時に全く伸びなくなったら『はい、伸びていませんね』という評価になるのは成長が早い子、遅い子の両方に良くないと感じてしまいます」(秋本)