日本で縛られていた「こうあるべき」の風潮 結婚・出産を経て、36歳で出場した4度目の五輪――バレーボール・荒木絵里香
家を空けることが多い競技生活で娘に対して決めていたこと
結婚・出産が周囲に影響を与えることは理解していた。当時は東レの主将であり、絶対的支柱だった荒木さんの存在は大きい。
「団体競技なので、自分のタイミングで辞めることはできない。契約の状況もあるし、(決断までの)期間は決めていました」。休養して妊娠・出産する選択肢のほかに海外に再挑戦したい想いもあった。それも踏まえ、事前に来季はチームを退団する意思を早めに伝えた。補強の準備期間を考え、チーム構想に配慮した。
しかし、社会活動と並行した子育ては簡単なことではない。頻繁に合宿があり、家を空けることが多いバレーボール選手である荒木さんもそうだった。
支えになったのは、母・和子さんの存在。荒木さんの決断を尊重し、中学校教師の職を離れ、フルサポートすることを申し出た。荒木さんも和子さんが住む千葉から通える埼玉上尾メディックスで復帰。ほぼ住み込みで育児を助けてくれた。「私が復帰できたのは、母の存在がすごく大きかったです」と感謝してもしきれない。
そのおかげで「出産した時は考えてもいなかった」という2016年リオデジャネイロ五輪、2021年東京五輪と4大会連続五輪出場という快挙に繋がっていく。
選手としての苦労も並大抵ではなかった。出産から半年足らずで練習に復帰。「初心者の方みたいに(レシーブで)腕が真っ青になって(笑)。授乳で(胸が)張って痛かったし、体はボロボロでした」。徐々にコンディションを取り戻していったが、荒木さんがママアスリートとして活躍できた理由は、割り切った思考にある。
「プレーヤーとしては『出産前の自分に戻ろう』と思わなかったことですね。それは復帰する段階から決めていたし、新しい自分を作っていくつもりでいました。そうすることで、選手としてまた面白さを感じることができた。今までの自分をイメージして追いかけたら、絶対にキツかったと思うんです。
出産による体の変化もありますが、年齢による影響もアスリートなら誰でもある。ジャンプ力が下がったら技術の面で技の引き出しを増やせばいい。一点ばかり気にしたらどうしようもない。違う部分で結果的に(トータルで)プラスを多く作れるように。そこに面白さを見い出すことができました」
出産から9か月で始まった2014年10月のリーグ開幕戦から主力として牽引し、大活躍。翌年3月には代表復帰の打診を受け、再び日の丸のユニホームに袖を通した。
ただ、選手として充実すればするほど、子供と時間を共有できないのが辛かった。代表クラスになると長期の合宿や遠征が頻繁にあり、物理的に離れ離れになる。
物心がつくと、和香ちゃんはバレーボールが“ママを奪ってしまうもの”と認識していた。「カレンダーで私がいなくなる日に『×』をつけたり、家の中に子供なりに罠を仕掛けて私を行かせないようにしたりで……」。家を空ける日、泣き叫ぶ娘を残して玄関のドアを開けた。
「母として娘の大事な瞬間や見たかった瞬間、一緒に共有したかったものができなかったのは少し寂しい。それが娘に今後どう影響していくかは分からないし、その難しさは今も続いています」。それでも、決めていたことがある。娘に対して、悲しそうな表情を見せないことだ。
「自分が決めたことに後悔は何もありません。選択に正解や間違いはないと思いますが、私自身はそういう覚悟を持って決めたので。その分、しっかりとやりきらないといけない。仕事として、自分の大好きなやりたかったことに夢を持ってやり遂げたいとずっと思っていました。
なのに何か悲しそうにしていたら、きっと娘も『なんで、そんな想いをして行くの?』と思うじゃないですか。だから、自分は本当にやりたくてやっているし、そこに自分の夢や目標を見い出したから。ちゃんと良い顔で家を出ていかなきゃと思って、そんな風に過ごしました」