1964年東京五輪の料理人・鈴木勇さん 選手村の料理は「1日として同じものなかった」
東京五輪の開幕を、1964年の東京五輪の選手村食堂で料理人を務めた鈴木勇さんも感慨深く見つめている。
選手村で最大1日7000人分の料理を3食作った
東京五輪の開幕を、1964年の東京五輪の選手村食堂で料理人を務めた鈴木勇さんも感慨深く見つめている。
23日の開会式はテレビで鑑賞。「スポーツは好き。前回の東京オリンピックは何も見てないから楽しみです」と語り、興味のある競技に野球を挙げ「地元横浜のベイスターズファンですから」と優しい笑顔を見せた。
81歳になる鈴木さんは57年前、東京・代々木公園に設営された選手村で、東洋・極東選手向けの「富士食堂」の料理人だった。選手村内に食堂は3か所あり、最も多いときで、1日7000人分を3食作った。
64年東京五輪は10月10日開幕。鈴木さんは9月30日に召集され、10月31日までの間、ほぼ休みなく、料理を作り続けた。
特別に用意された「オリンピック・メニュー」はホテルで出すような上品でボリュームのあるメニューが多かった。「セレブたちに出す、そのものズバリです」。ビーフステーキ、ローストチキン、ラム肉の料理、シチュー類…。「スープだけで60何種類、ソース類だけでも30種類ぐらいあったかな。それで毎日、出すものが違う。1日として同じものがなかった」
シェフの確保はホテル協会が請け負い、300人を集める予定だったが、10月は繁忙期だったため、200人程度しか集まらなかった。そのため、「レストラン協会に助けを求めて、沖縄を除く各県で2人ずつ、100人ぐらい集めて、全部で320~330人くらいいました。遠くの人たちは参宮橋に寮を作ってもらって、缶詰めになっていた」。
腕に自信のある一流の料理人に囲まれ、若き鈴木さんは大いに刺激を受けた。
「レストラン協会の人たちの仕事とホテル協会のコックさんの仕事は全然違う。前から聞いていたんですけど、いい勉強になりました。まず、ホテルの人たちは語学が達者。料理長がタイプライターで打ったメニューを朝、貼り出すんです。それを見て、ホテルのコックさんたちはバッと分かれてすぐ仕事に入る。休憩するときは、時間を決めて、めりはりをつけていた。料理作るのはきれいだし、仕事に入ったときのスピード感はすごく早い。レストラン協会は朝からめりはりがない。1日ダラダラやっていました」
多忙のあまり、自身のまかないについては「記憶がない」ほどだった。