新谷仁美、日本記録に届かず会見で涙 「何も残せず非常に残念」「私が返せるものを返したい」
東京マラソンは3日、東京都庁~東京駅前行幸通りの42.195キロで行われ、女子1万メートル&ハーフマラソン日本記録保持者の36歳・新谷仁美(積水化学)が2時間21分50秒で日本人トップの6位だった。パリ五輪出場ではなく、日本記録2時間18分59秒の更新を目指してマラソンに挑戦。自己ベスト2時間19分24秒にも及ばず、会見は涙ながらにサポートへの感謝などを語った。
東京マラソン
東京マラソンは3日、東京都庁~東京駅前行幸通りの42.195キロで行われ、女子1万メートル&ハーフマラソン日本記録保持者の36歳・新谷仁美(積水化学)が2時間21分50秒で日本人トップの6位だった。パリ五輪出場ではなく、日本記録2時間18分59秒の更新を目指してマラソンに挑戦。自己ベスト2時間19分24秒にも及ばず、会見は涙ながらにサポートへの感謝などを語った。
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新谷が想いを込めて東京を駆け抜けた。スタート地点は晴れ、気温6度、湿度38%の好条件となり、男子のペースメーカーにつきながら5キロを16分37秒で通過。20キロは1時間6分20秒の日本人トップで走り、他の日本人選手を大きく引き離した。30キロを1時間39分03秒、35キロを1時間56分16秒の日本人トップ、全体6番手で通過。沿道の声援を受けながら東京マラソンを走り切った。
今夏のパリ五輪を目指さない意向の新谷は、昨年10月のパリ五輪代表選考会・マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)を辞退。野口みずきが持っていた日本記録2時間19分12秒(当時)への挑戦を優先した。昨年1月のヒューストンで2時間19分24秒(当時日本歴代3位)の自己新をマーク。同9月のベルリンは2時間23分8秒(11位)だった。
MGCファイナルチャレンジの一つだった今年1月の大阪国際女子ではペースメーカーを担当。前田穂南(天満屋)が2時間18分59秒で19年ぶりに日本記録更新を更新し、新谷が“アシスト”する形となった。MGCファイナルチャレンジ対象ではない今大会にエントリー。22年大会は2時間21分17秒(7位)だった。
会見した新谷の主な一問一答は以下の通り。
――レースを振り返って。
「本日はありがとうございました。単純に結果が出なかった。それ以上もそれ以下もありません。以上です」
――30キロ以降でペースが落ちたように見えた。終盤を振り返って。
「ただただ走っていて自分でもペースが落ちている感覚はあった。25、6キロくらいから結構きつくなった。なんとなく後半の自分がどんな走りをするか頭をよぎった。でも、冷静に対応しないといけないと思って走った。でも、予想通りのタイムで走ってしまった。本当にただただ力不足だと思う」
――もう少しこうしたかったとか。
「走りづらさはなかったですが、ハーフくらいまではリズムよく走りたかった。なので、ハーフまでは前のペースメーカーを信用しようと思っていた。男性選手だし、日本人選手だし、もし何かあれば話もできると思ったけど、総合タイムは意識しているけど、私は42.195キロをどれだけストレスなく走るか考えると、前半からタイムを確認するのは避けたかった。前半は任せて、そこから自分のリズムで走ろうと思った。設定ペースより遅いと気づかなかった。
本来なら5キロごとで3分16、17秒くらいで走る予定だった。それ(想定より遅いこと)に気づかず、結構楽だったので楽だと思いながら走っていて、遅いと気づいたのがハーフ前に横田コーチから『遅い!』と聞いて。そこで『ヤバい』と思って変なリズムに入った。
それも結局、私が早々に気づけばよかった。時計はつけていた。ストレスを感じずに走りたいというのを優先しすぎた結果。反省点だと思う。ハーフの通過タイムを見て『あれ?』と思って。ハーフの後にペースが上がって焦ってしまった。その5キロで使い果たしてしまった」
――日本記録挑戦の難易度について。
「前々日に皆さんの取材で発した言葉通り、私は今までのマラソンが最初から最後まで人に頼りすぎていた。ペースメーカーにリズムをもらうことも悪い結果になると反省点もあった。やっぱり自分の感覚で走ることが一番いいリズムで走れると感じながら練習してきたので、それを42キロで出したかった。前半はあくまでペースメーカーをうまく利用して、そこから自分のリズムにはめたいと思っていた。タイムを見ていなかったのが全ての原因」
――日本記録への思い。
「決して日本記録を出すと公言したからサポートしてくださっているわけではないと思うけど、やっぱり私が普段からサポートしてくださっている方に返せるものは本当に限られている。(涙を流しながら)ありがとうとか、感謝の気持ちは常に持つ必要があるけど、やっぱり(一度引退から)復帰して、まっさらな状態でこの業界に戻ってきて、変わらずサポートしてくれる人がいる。
月日が経っても私を受け入れてサポートしてくれる人たちに言葉じゃなく、目に見えないものじゃなく、ちゃんと目に見えるものとして私が返せるものを返したいという気持ちが常にあった。だから、やっぱり今私が返せるものがあるとしたら、可能性があるかどうかわからないけど、日本記録のタイトルは形として残ると思うし、同時にそれが感謝が伝わりやすいと思う。だからそこにこだわりを持ち続けている。今後も可能性があるなら持ち続けたい」
――沿道で走りを見たい人が動画を見ながら声援を送っていた。
「走っている時も、本当にこれは私自身が感じたことですが、一番応援が多いんじゃないかというくらい最後まで……私自身がもう日本記録ダメだろうなって思っていても、それでも応援が力になったし、動画を撮っているのはわからなかったけど、この大会で一番応援されているなって思えたことが凄く嬉しかったし、逆にここまで多くの人が来てくださったのに、パフォーマンスとして何も残せなかったのが非常に残念だったと思う」
(THE ANSWER編集部)