高校サッカー監督から転職 選手権13度の62歳元名将、静岡で第2の人生を始めた理由
奈良育英を不本意に辞職 ライバル校の元監督が「うちに来ないか」
上間氏がここに来たのは2017年10月。同年7月末までは、奈良育英の校長であり、サッカー部の監督だった。だが、部内で起きた指導者側の不祥事と自身の責任も問われて辞職。「奈良を離れよう」と思った時に、株式会社時之栖で相談役を務めていた阿部章氏(21年11月に退職)と阿山恭弘氏(現常務)から「うちに来ないか」と声が掛かった。
「阿部さんは、私が新卒で奈良育英に入った当時、県内で最強だった大淀の監督でした。時之栖の誕生当初、1995年からここに来て、今のサッカーをして、食べて、風呂に入って、泊まる施設スタイルを築いた人です。そして、阿部さんと共に時之栖の発展に貢献してきた阿山さんが、奈良に会いに来てくれました」
かつて上間氏は、「打倒大淀」を目標にしていた。天理大を卒業後、83年4月に奈良育英の教員になり、サッカー部のコーチに就任。5年目の87年度からは監督を務め、第66回全国選手権で同校を初出場に導いている。
「奈良育英は私が勤務する前から県で2位か3位で、コーチ就任1年目で全国総体には出場できました。ただ、意図のないボールを前にボコボコ蹴って、止められない、走れない、サッカーにならないというレベル。全国では全く通用しませんでした。個の力を上げるしかなかったのですが、私にも指導のノウハウがないので、心理学、生理学などを勉強しました。そして、関東に遠征して練習試合を繰り返しました」
こうして、上間氏と選手たちは成長。全国選手権2度目の出場となった69回大会(90年度)で1勝、3度目の71回大会(92年度)で2勝、4度目の73回大会(94年度)では4強入りを果たした。同大会での正GKは、後に日本の守護神となる楢崎正剛だった。