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“26歳”の大学日本代表が誕生したワケ 「人生で一番落ち込んだ」戦力外通告経て見つけた新たな夢

大学卒業後は台湾プロ野球でも投げた【写真:羽鳥慶太】
大学卒業後は台湾プロ野球でも投げた【写真:羽鳥慶太】

23歳の大学1年生に「周りのほうが難しかったかも」

「将来的に高校の指導者をしたいという話もしたんです。それなら教員免許もいるし、大学に行かないと、となって……」。九産大に入学し、ストレートなら卒業しているはずの23歳で野球部の門を叩いた。

 現在よりもっと“タテ社会”文化が絶対だった時代だ。年増の新入生は、大学野球の常識に当てはまらない部分もあった。「周りのほうが難しかったかもしれませんね。1年生なのに年上なんですから。入ったからには1年生の仕事をこっちからするんですが、どうしようという感じでね。でも徐々になじんでいきましたね」。

 当時の福岡六大学リーグは、九州共立大の全盛期。「プロも何も、そんなもん無理だと思っていた。せっかく入ったんだから、共立大を倒して全国に行ってみたいなと、それくらいに思っていたんです」。そんな思いとは裏腹に、武藤さんはすぐに頭角を現す。

 金属バットの社会人野球でもまれていた武藤さんには、木製バットを使う大学生を詰まらせる感覚が新鮮だった。「それまでは詰まらせたと思ってもスタンドまでもっていかれちゃうんですから」。4年生の春には全日本大学野球選手権で8強に進出。優勝した青学大との試合に1-2と惜敗した。「まさかですよ」と思っていた日本代表入りの知らせが届いたのは、その直後だった。

 日本で行われた大会では、5試合中2試合にリリーフ登板。佐藤友亮(慶大)や阿部真宏(法大)といったメンバーとはその後、3年間の台湾プロ野球生活を経てスタッフとなった西武で再会することになる。

 武藤さんは言う。「人生の時々で、恵まれていたんです。引き上げてくれる人がいたんですよ」。社会人野球で戦力外とされ悶々としていたあの時「もう一度野球をやりたい」と言わなければ、51歳になった今も野球に関わり続ける人生は存在しなかった。夢や目標を持ち続けること、口に出すことが人生を切り開いてくれた。

(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)

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