「クビと言われたらそれまで」 ひと月45万円で飛び込んだ台湾プロ野球 武藤幸司が異色経歴でつかんだ“財産”
台湾選手が興味を持つ“先輩後輩”関係「本当にみんな人がいい」
台湾で2年プレーした2001年のオフ、ダイエー(現ソフトバンク)の入団テストを受けたこともある。結果は不合格。「そんなにガツガツしてなくて、これも一つの経験くらいの感じでしたね」。翌年はシーズン途中にまた台中金剛へ戻った。
最初は不安だった台湾生活になじんでいたのも、再び台湾でのプレーを選んだ理由だったのかもしれない。「元々行動的なほうじゃないし、始めは心細さしかなかったです。でも台湾は本当にみんな人がいいんです。“武藤”は中国語では“ウータン”と読むんですが、みんな日本流の先輩後輩の上下関係に興味を持って『ムトウさん』って呼んでくれましたね」と懐かしそうだ。
そんな台湾生活の終わりもまた、突然だった。3年目のオフ、台湾では当時2つ存在したプロリーグの統合が進められると決まった。外国人枠が不透明になり、翌年プレーできるかわからないという状況に立たされた武藤さんは、帰国を選択。ちょうど西武から打撃投手の話が高校の監督経由で持ち込まれ、そこから裏方としてNPBの世界で生きてきた。台湾でプロになるという選択は、今考えても大正解だったという。
「何が、じゃないんです。異国の地で経験したことすべてが、財産になるんです」
西武は伝統的に、台湾球界との結びつきが強い。後にミンチェ(許銘傑)や張誌家、郭俊麟といった選手と接することになる。昨季まで在籍した呉念庭は、台中金剛で選手と監督の関係だった呉復連氏の息子だ。苦労も楽しさもあった3シーズンは、間違いなくその後の人生を豊かにした。
(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)