「クビと言われたらそれまで」 ひと月45万円で飛び込んだ台湾プロ野球 武藤幸司が異色経歴でつかんだ“財産”
契約は月給45万円、超シビアな世界「クビと言われたらそれまで」
インターネットがようやく一般的になろうかとしていた時代。台湾のプロ野球については「予備知識が全くなくて。野球するならどこも一緒だろう、くらいの感覚でした」。台湾中部の嘉義市で「台中金剛」の入団テストを受けた。試合前だったという。その日の対戦相手だった「嘉南勇士」では当時、西武の渡辺久信・現監督がプレーしており、声をかけられたのを覚えている。
一度帰国し、合格の報を受けた。今も続く台湾プロ野球の特徴が、外国人選手の入れ替わりが激しいこと。契約からして「年間いくら」ではなく「ひと月いくら」だった。武藤さんに提示された月給は45万円。その上「契約しても、正式ではないというか……。クビと言われたらそれまで。しかも3月から10月のシーズンの間しか給料は出なかったんですよね」。いつ切られてもおかしくないという過酷な条件を背負い、好投を続けた。
1年目は13試合で6勝6敗、防御率2.74。92回を投げて被本塁打はわずか1本だった。翌2001年は18試合で13勝3敗、2完封。2002年も15試合で8勝3敗、防御率2.26。日本のアマチュアと台湾のプロのレベルについて、当時の肌感覚を聞くと「やっぱり野球に大ざっぱな部分がありましたね。身体能力の高い選手は多かったですが、日本のような細やかさがなかった。プロフェッショナルというよりは、お国柄というのかな、楽しむ感じでみんなプレーしていましたね」。まだまだ技術の差もあった。
武藤さんの投球スタイルは140キロほどの真っすぐと、制球力が生命線だった。上位から下位までフルスイングしてくる打線を、面白いように手玉に取った。
現在は台北に3万人を収容できるドーム球場が開場するなど、台湾プロ野球を取り巻く環境も大幅に進歩している。ただ当時の印象は「(球場が)暗かったですね……」。武藤さんがプレーした台中金剛の本拠地は、市内中心部にある大学の球場。設備は貧弱だった。「今だに覚えているのは、試合中の球場に犬が入ってきたんですよ。相手の先発が石井丈裕さん(元西武)で、私はベンチにいたんですが、びっくりしますよね。バックネットの前に突然現れてね」。今となってはハプニングもいい思い出だ。
公用語の北京語がわからないまま飛び込んだが、野球では言葉に苦労することはなかった。ただ「タクシーに乗ると言葉が通じなくてね……。いつも違うところに連れていかれちゃうんです。言葉を教えてもらっても、野球仲間には通じる。発音も分かってくれる。でも外に出ると本当に難しかった」。マンションを借り上げていた合宿所と球場の間はバスで通っていた。