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「僕は競技場で生存を賭けていた」 皿洗いバイト、奨学金…出場を逃せば次はない「これも五輪のリアル」――陸上・末續慎吾

44歳になった今も現役で走り続けている【写真:(C)EAGLERUN】
44歳になった今も現役で走り続けている【写真:(C)EAGLERUN】

北京五輪で悲願のメダル獲得も…周囲とあった温度差

 その後、冒頭の2003年世界陸上パリ大会での銅メダル獲得で、末續は世界のリアルを感じ取る。翌年のアテネ五輪では男子4×100メートルリレーで4位入賞。五輪のメダル獲得に、あと一歩まで迫った。

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 競技生活はすっかり軌道に乗っていた。だが、当時の自分を満足させるものは1つもなかったという。

「僕にとって走ることは生きるか、死ぬか。末續慎吾という己の看板があって、そこに人格や自我を超えた生き様を賭けて走っていました。勝ち負けやお金を超える自分の境地を賭けていたので、負けた時はとめどない人格否定になってしまう。負けてしまったら自分を破壊するつもりで走っていました。生きる価値がないと思ってしまう。

 妥協は許せないというか、勝負の場では1ミリたりとも許せなかった。だから負けませんでした。勝つことだけでなく、勝ち続けないとダメ。それくらいのところにいないと、この競技は維持できないとマインドセットしていて。負けることを許さない競技はそのあたりから始まった。あの頃、僕は競技場で生存を賭けていました」

 走らなければならない理由があった。

 3大会目は2008年の北京五輪。男子4×100メートルリレーで第2走者を務め、日本勢にとって悲願の銅メダルを獲得した(※後に銀メダルに繰り上げ)。それでも「獲っても変わらなかった」と声のトーンは変わらず落ち着いたままだ。

「経験を次の大会に生かすと言えるほどの未来はなかった。だから再挑戦が恥ずかしかった。モチベーションは必要ありませんでした。やらないと、勝たないと、続けられない。そうしたら自然と圧倒性が出てくる。そんな境地で走っている人間は周りにいなかったから。勝ち負けで喜ぶとか残念といった世界線で生きていない。メダルを獲っても、同じでした。チームとして戦う素晴らしさは後々感じましたし、協力とか協調性がないわけではない。ただ、その瞬間の僕はリレーメンバーの他3人とは明らかに違って、明確に温度差がありました。僕と彼らが考える普通が違うのは仕方のないことです」

 日本代表として陸上競技のリレー種目で史上初となるメダル獲得も、意に介さず「たいして嬉しくなかった」と言い切ってしまう。世界陸上だけでなく五輪でもメダルを獲得し、200メートルを20秒03で走った記録は現在もナショナルレコードとして記録されている。紛れもなく歴史に名を残したアスリートだ。

 周囲がメダリストに対して向ける目は、自然と変化していく。しかし、それさえも末續にとっては大きな意味を持たないものだった。

「その時の僕は自覚していなかったけれど、世界の舞台でメダルを2つ獲って、日本記録を樹立した。どれも客観的に見れば歴史的なことであって、8年間くらいは無敗の時代がありました。

 ただ、だからといって外に労いを求めるのは違って、それは周りに理解できるものではありません。承認欲求は自分よりも高いものを持っている人から承認された時に満たされるもの。そうなると僕は求めるところがない。ないがゆえに、苦しい。今、僕が20歳の自分に会えるのならば『キミを評価できる人はいないから、自分自身で評価しない』と伝えるでしょうね。

 メダルを獲っても、僕は何も変わりませんでした。でも、メダルという副産物に集まってくる人間や社会といった関係は変わっていきます。人気や影響はあったかもしれないけれど、非常に危険な場所にいたなと思います」

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