「練習もチャリもバスもずっと1人で」 孤独な高校生だった羽根田卓也が得た人生の財産
面識のない先輩アスリートに送った履歴書「“名無しの権兵衛”だったので」
目標のためなら、アスリートとしてのプライドも時には捨てた。
リオ五輪を控えた2016年。今後の競技を考え、マネジメント事務所について相談したいと、競泳で五輪2大会に出場し、引退後は多方面で活躍する伊藤華英さんに知人を通じ、コンタクトを取った。メールとともに、履歴書を書いたのである。すでに五輪に2度出場していたトップアスリートが。
「自分の中では普通でした。当時は“名無しの権兵衛”だったので。五輪に出ても全く話が通らない身分。やっぱり伊藤さんは競泳で有名選手でしたし、自分のことはもちろん知らないから。だったら、履歴書が手っ取り早いだろうと。それだけのことです」
スポンサー獲得のために手紙を送り、企業に出向いてプレゼンを繰り返したのは前述の通り。当時は20代で社会人経験もない。世の中のルールを知らず、「一度こっぴどく怒られて、大変良い薬になりました」というのも、今となっては笑い話だ。
アスリートはトップ選手ほど、プライドが邪魔をする。競技に犠牲を払うあまり、世の中を知らない。自然と生まれる社会との“距離”は一つの課題だろう。「そういう選手がほとんどだと思います」と言う羽根田の苦労話も美談として扱われるが、本人も決して乗り気ではなかった。
「やっぱり怖いですよ。資料ひとつ、身ひとつで、誰もついてこなくて、自分で連絡して、メールを打って、1人で乗り込んで“コワイ大人”に会うなんて、凄く勇気がいる。そりゃあ、本当はそんなことやりたくなかったです。競技時間がたくさん割かれることがあり、本当に大変でした。でも、それはそれで自分の強さになった。あの経験がなかったら、甘やかされた“ふにゃふにゃした選手”だったと思いますね」
なぜ、そうまでしたのか。答えは「そういうことをしないと競技を続けられない世界なので」という現実的なものだった。
「でも、凄く良い経験になっています。人間としての太さ、ポジティブシンキングに繋がっているし、勝負強さにも繋がっていると思います。だから、良い意味でマイナー競技で良かった。伊藤さんに履歴書を送ることになったし、会社に乗り込むことになったし、スロバキアに1人で行かなければいけなかった。いろんな人生経験ができて、鍛えてもらえた。それがリオの結果であり、東京五輪の挑戦に繋がったので」
自分の心を磨く。メンタルトレーナーをつけたことがない羽根田にとって、もう一つ、ここ4、5年で最も良い機会だったのは「取材」という。メディアからの依頼は基本的に受けた。インタビューを受ける側の「インタビュイー」としての立場を生かし、思考を整理させた。
「新聞社さんなら、会社ごとに特徴・特色があって、社会的なことを聞く会社、競技のことを聞く会社、精神世界を掘り下げる会社。自分の長所・短所、耳が痛いことを含め、いかに自分を掘り下げていくかを、僕はインタビューで凄く学ばせてもらいました。自分を見つめるほど、自分のやりたいこと、生き方、生き様が定まってくる。それが、競技をする姿に反映され、競技、練習、成績にもきっと反映されてきました」
そういう羽根田が、選択の連続が将来に待っている子供たちに、特に伝えたい部分は「自分を見つめること」だ。