「五輪でメダル獲っても入社します!」 元フジテレビ中野友加里が語る就活時代の秘話
面接で受けた質問「五輪に出て、メダルを獲ったらどうするんですか?」
実際にエントリーシートを通過し、本格的な選考過程に入っても簡単ではなかった。例えば、面接。国際舞台で活躍し、1人で多い時には1万人以上の観衆の前で演技をしている。自分を表現することは得意分野かと思いきや、そうではなかった。
「面接というのは、初めての経験。もう緊張してしまって。『こういうこと、ああいうことを喋らなきゃ……』と自分の中で分かっていても、実際には出てこないのが面接じゃないですか。ああ、考えてきたことと全然違うことを言っちゃった。そんな経験をするのは私も一緒でした」
採用試験はシーズンの最中。海外遠征から帰国後、成田空港から直接、お台場に向かったこともある。筆記試験は大雪と重なり、お台場で吹雪にさらされた。当時は表舞台に出ている選手。「こんな経験をするなんて……」と心も折れかけた。
しかし、生半可な覚悟で臨んでいたわけではない。局長クラス7人を相手にした面接は最も緊張した。「圧を感じる面接でした(笑)。でも、ここで負けたらいけないと思いました」。だから、厳しい質問を受けても決してひるまなかった。
当時は浅田真央を筆頭に鈴木明子、安藤美姫らとバンクーバー五輪出場を争う立場にいた。もし、採用内定をもらった上で出場権を獲得すれば、4月の入社直前の2月に五輪の舞台に立つことになる。実際に、こんな質問を受けた。
「もし、内定後にバンクーバー五輪に出て、メダルを獲ったらどうするんですか?」
「テレビ局の社員じゃなくても『タレント、キャスターの道はどうですか?』という話が来ると思いますけど」
「まだまだ滑ることができるのに、この年で辞めてしまうのはもったいなくないですか?」
それでも、中野さんは言い切った。
「たとえ、オリンピックに出ても、メダルを獲ったとしても、私は必ずフジテレビに入社します!」
中野さんは「そこまで言い切って、言ったことを実際に守ったことが良かったのかな」と振り返る。「辞めることがもったいないと言われた質問には、テレビのドラマに例えて『もっと見ていたいくらいで最終回になり、終わるもの。それと同じになりたいです。』と答えていました」と明かす。
五輪メダリストになっても社員になる――。そこまで強い覚悟の裏には理由があった。
「本当に社会人として働きたかったんです。それと同時に、みんなで何かを作る仲間に入りたかったです。ずっと一人で戦ってきた人生だったので、みんなと何か完成させたい、一緒にやりたいという希望、願いがあったのかもしれません。それを一番に感じていたのが、当時早朝に放送されていた『めざにゅ~』と、その後始まる『めざましテレビ』という情報番組。私は毎朝5時に起きて練習に行っていて、あの番組の雰囲気が好きで自分も仲間に入りたいと思っていたんです」
多くの選考過程を乗り越え、見事に内定。もし、内定が出なければ就職せず、別の道に行くことも考えていた。だから、携帯電話を握り締めながら待った最終面接の結果連絡の電話が来た時は、跳び上がるほどうれしかった。
大学院2年生の12月に挑んだ全日本選手権で2位の鈴木と0.17点差に泣いて3位に終わり、バンクーバー五輪代表の座を惜しくも逃した。こうして「選手・中野友加里」のキャリアに終止符を打ち、社会人としてキャリアを築くことになった。
では、その決断は人生にどんな価値をもたらしたのか。