美しすぎるバレーボール選手の今 パーソナルトレーナーとして歩む“第二の人生”
高校卒業後、初めて感じた実業団の壁「自分よりスゴイ人しかいない」
「将来は体育の先生になりたい」。中学・高校とバレーボールを続けるなか、滝沢さんはそんな目標を抱き続けていた。高校卒業後の第1希望は体育大への進学。母に希望は伝えていたものの、「絶対に進学したい」という想いは口にしなかった。
「うちは母1人、兄妹5人の大家族。妹や弟もいて、経済的なことを考えると『大学に行きたい』とは言えませんでした。奨学金を借りて進学する道もありましたが、当時の自分は、そこまで考えが至らなかった」
そんななか、V・プレミアリーグのパイオニアレッドウィングス(2014年に廃部)から、入団のオファーを受ける。「果たして、自分の力で通用するのか?」。思いがけない話に、一時、躊躇した。
「プロなんて、感じたことのない未知の世界。本当に私に出来るのか、という不安はすごくありました。けれど、大学は行く気さえあれば大人になってからもいける、多分、こんな機会は人生に二度とこない、と思いました。怖かったけれど、実業団への道を選びました」
そして2006年、パイオニアレッドウィングスに入団。ここで滝沢さんはバレーボール人生で初めて、「お山の大将」から山の裾野へと転がり落ちた。
「中学・高校は1年からずっとレギュラーでやってきたし、『辞めたい』と言えば皆、引き留めてくれる。自分は出来る子だと、どこかで調子に乗っていたんです。でも、実業団に入ったら、プレーも、身体能力も、自分よりスゴイ人しかいない。例えば『足は速い』と自負していたのに、何なら下から数えたほうが早かった。練習の一つひとつも『出来て当たり前』の世界。大人だから強要もされないし、自分でやらなければ置いていかれるという状況に、初めて立たされました」
いわゆる『雑用係』も初めて経験。朝の練習前は毎日、コートを掃除し、ボールの気圧を計り、コーチや監督のドリンクを準備する。シーズン中は、試合に必要な道具を準備し、移動用のバスに詰め込み、選手たちのために更衣室をセッティングした。練習が始まっても、試合に出る人しかコートには入れない。メインの選手たちが終わった後、若手だけの練習がスタートし、やっとそこで、ボールを触れた。
「『ユニフォームを着られない立場』に置かれて、謙虚さを学びました。試合には出られないし、下手くそだし、びびるし、の毎日でしたが、この3年間は、本当に充実していたし楽しかった。一人の人間としてすごく成長した時期でした」
2年目に入り、滝沢さんは開幕戦でリーグ戦初出場を果たす。しかし、次のチームに移籍する日まで、レギュラーポジションを獲得することは叶わなかった。試合に出られず、バレーボールから気持ちが離れることはなかったのか? その問いに、サラリと答えが返ってきた。
「いや、離れなかったですね。心が離れた瞬間、多分、バレーボールなんてできなかった。そのぐらい、毎日、必死でしたから」
その後、2009年7月、滝沢さんはV・チャレンジリーグ(現V.LEAGUEのDIVISION1)の埼玉上尾メディックスに移籍する。同年からレギュラーに定着し、チームもリーグで準優勝。新天地で選手として息を吹き返したかに見えた。
ところが、翌年からは途中出場が多くなり、スタメンで出場する機会はほとんどなくなる。一方で、『美人すぎる』という称号でメディアには取り上げられるようになり、「埼玉での4年間はもっとも苦しかった」と振り返る。
「埼玉での立場はいわゆる中堅選手。レギュラーではなかったが、試合にはちょこちょこ出場していたし、若手がいてくれるので雑用をすることもありませんでした。本来、私のような中堅選手は、チームの士気に関わる大事な立場です。でも、若手のようなフレッシュな気持ちも必死さもなく、途中出場をくり返すうちに、責任感も薄れていった。毎日、気持ちがふわふわしていて、心ここにあらずでしたね。当時に戻れるのなら、チームのことを考えてしっかりしろ! と自分に言いたい。特に引退前の最後の2年間は、モチベーションを保てず、かなりしんどかったです」
3年目、「今シーズンで引退したい」とチームに申し出る。しかし、すでに引退が決まっていた選手もいたこともあり、チーム側は滝沢さんを慰留。「よし、ならばもう1年やろう」。心を新たに最後の1年間、戦った。
そして4年目のシーズン終了後、2013年に現役を引退。同時に、約20年のバレーボール人生は幕を閉じた。「『あと1年』と決めていましたから。最後は思い残すこともなく、サッパリしていました」。