22歳で戦力外通告、3日後にもう就活 元ロッテ選手がこんなに潔く現役を諦められた理由
19歳で開幕1軍入り、斎藤佑樹からプロ初安打も22歳で戦力外に
肘井さんは“スカウト”されて現職に就いている。現役時代、様々な競技のアスリートが学校で夢に関する授業を行うJFA主催の「夢の教室」に「夢先生」として参加。小学校で1クラスを担当した際、子どもたちとの交流で優れたコミュニケーション能力や発信力を発揮し、事務局から高く評価されていた。
引退決断後に連絡を受け、検討した末に入局を決意。就職して3年目を迎えている。最初は出来ないことも多かったが、苦労と感じたことはない。
「飛行機のチケット、ホテルも現役の時は自分で予約することもなかった。何もわからないところからとれるようになったとか、最初はそんなことですよ。苦労と思えば苦労なんでしょうけど、知るってこんなに楽しいんだというのが大きいです」
12球団の主力選手とも関わることが増え、「この人ってこういうこと考えてたんや、こうだからこういう風になれるんや」と感心することも多々ある一方で、若手選手の意見を吸い上げられることにも意義を感じている。
野球界の制度について質問、要望を受けることも多いが、私生活に関すること、些細な事務的なことでも頼って連絡してもらうことが、年齢が近く、選手経験もある自分にしかできないことであり、仕事の喜びの1つになっている。
「どうしても選手会はレギュラークラスが動かしているイメージがあり、あまりミーティングで若手選手が話すことはなかったと思うんですけど、自分が入ったことで若い人たちが(選手会に)目を向けてくれるようになってきているのかなと。選手は、レギュラーじゃない人の方が多いので」
現役時代は拡声器を片手に勝利後の場内を盛り上げ、ファン感謝デーで面白コメントを残すなど、熱いロッテファンの心を掴んでいた肘井さん。プロ5年目の18年10月1日に戦力外通告を受けたが、長打力を武器に高卒2年目で1軍昇格を果たすなど、将来を期待された1人だった。
兵庫・北条高では強打の捕手として通算46本塁打。13年、育成ドラフト1位でロッテに入団し、外野手に転向した。「自分でも順調すぎると思うくらい、ゲームの世界のように成績も上がっていた」と振り返るように急成長。プロ2年目の15年3月に支配下登録を勝ち取り、背番号も「122」から「69」に変わった。
同年、外野手は荻野貴司、清田育宏、角中勝也、岡田幸文ら実力者が揃っていたが、伊東勤監督に打力を買われ、19歳で開幕1軍入り。「8番・左翼」で初スタメンとなった4月2日の日本ハム戦では斎藤佑樹から適時二塁打を放ち、プロ初安打初打点を記録している。
さらなる飛躍を目指し、2軍で経験を積んでいた同年9月、イースタンリーグの試合で顔面に死球を受けて鼻骨などを骨折。戦線離脱を余儀なくされ、以降は左投手との対戦打率が急落するなどセールスポイントの打撃に狂いが生じた。
戦力外通告を受けた時はまだ22歳、大卒世代なら社会人1年目の年だった。ただ、ネガティブな感情は一切、生まれなかった。現役続行を目指すなら、12球団の編成担当らの前で実力をアピールする場であるトライアウトに挑む選択肢もあったが、参加せずきっぱりと引退を選んだ。
なぜ切り替えられたのだろうか。理由は、現役最終年に選手生活を全うできたと思えたからだという。支配下選手となってから初めて1軍未出場に終わったにも関わらず、だ。