「名誉を捨ててまで代表に…」 W杯を“出場拒否”オランダの英雄が貫いた美学
「思い通りにプレーできないのが分かっているのに、名誉を捨ててまで代表に行くわけにはいかない」――ルート・フリット(元オランダ代表)
1987年バロンドール受賞のフリット、94年アメリカW杯直前に代表チームを去る
「思い通りにプレーできないのが分かっているのに、名誉を捨ててまで代表に行くわけにはいかない」――ルート・フリット(元オランダ代表)
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フットボールプレーヤーにとって、ワールドカップ(W杯)は究極の舞台だと言われている。日本でも、惜しくも代表漏れした選手が「W杯だけがサッカーではないから」と、自分に言い聞かせる選手はいても、露骨に招集を拒否する選手はいなかった。
だが世界を見渡せば、どうしても代表チームの方向性などが納得できずに、W杯を辞退する選手もいる。1978年アルゼンチン大会では、オランダの英雄ヨハン・クライフが「家族との時間を大切にするため」に、女王の要請にも翻意せず出場しなかった。またJリーグ初代得点王のラモン・ディアスも、最盛期で迎えるはずだった1990年イタリア大会でのアルゼンチン代表への招集に応じなかった。ディエゴ・マラドーナとの不仲が原因だったという。
1994年アメリカ大会のオランダも、優勝候補の一角に挙げられていた。1988年には欧州選手権(EURO)を制し、その中核を成したルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールのトリオが加わったイタリアの名門ACミランは、80年代後半から90年代初頭にかけて黄金時代を築いた。フリット自身も1987年にはバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞している。
31歳で迎えるアメリカ大会は、フリットにとって世界一への最後の挑戦になるはずだった。攻撃のパートナーだったファン・バステンは度重なる怪我のために現役を退いていたが、後継者としてデニス・ベルカンプが台頭してきていた。
だが大会直前にフリットは、オランダ代表を辞退し合宿を去る。主な原因は、ディック・アドフォカート監督の戦術を受け入れられなかったからだった。
「本当に残念だけど、代表チームの考え方はどうしても合わなかった。あの暑さの中で、アドフォカート監督が考えた戦術は適していなかった。終わってみれば、僕の言っていたことが正しいと、みんな言っていたよ」