最強の甲子園V投手は死んでいない 二刀流、手術、結婚 吉永健太朗、8年後の夏の真実
復帰確率「30%」の大怪我…時に苦しめられ、時に助けられた「甲子園の記憶」
突然だった。3月。野手で出場したオープン戦、一塁走者で牽制球に頭から滑り込むと、激痛が走った。右肩亜脱臼。靱帯も一部断裂した。投手の生命線に負った致命的な怪我。保存治療を試みたが、一向に良くならないどころか、一度ブルペンに入れば、腕が1週間上がらず。投手はおろか、野手の送球すらままならない。やがて、選択を迫られた。手術するか、否か。医師は言った。
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「手術をした場合、投手としての復帰まで1年はかかる。復帰できる確率は30%です」
突きつけられた現実。それも「30%」は、中高生を仮定して弾き出された数字だ。プロも注目するレベルの投手が、野手に起こりやすい肩の脱臼で手術するなんて前例がない。堀井監督は思った。「確率は30%よりも、もっと低い。投手として復帰できれば、奇跡だ」と。「70%」に転べば、野球人生は終わる。しかし、本人は「30%」に賭けた。9月、生まれて初めて肩を手術した。
手術後、環境が変わった。リハビリに充てる1年間は戦力になることができない。野球部に籍を残す代わりに、休部扱いとされた。復帰へ、課された条件は一つ。「1年後に1イニングでいい。試合で痛みなく、全力で腕を振る姿を見せること。それができなければ、翌年はない」(堀井監督)。平日は午前9時から午後6時まで社業に没頭。東京支社の総務部社員として働くことになった。
「なんで、自分が……」。本意ではなかった野手挑戦で負った怪我。社内の雑用に追われ、チームメートが出場する都市対抗の選手名鑑作りに励んだこともある。堀井監督は「甲子園優勝投手にとって、泥水をすするようなもの」と言った。それでも、諦めれば即、野球人生の終わりを意味する。仕事を終えて午後8時から遅くまでリハビリに励み、土日を使って休みなく体を動かした。
頼りになったのが、社会人で再会した“あの夏”の女房役だった。日大三でバッテリーを組み、一緒に甲子園優勝を味わった鈴木貴弘が同僚にいた。手術から10か月、ブルペンに立てるようになった頃、「受けてほしい」と声をかけたのが、10年来の盟友だった。練習を終えて疲れている鈴木に頼み、夜な夜な、球を受けてもらった。ただ、二人三脚の道のりもトラブルが連続した。
「今日は調子がいい、いける」。そう思ってグラウンドに来てもらった直後、急に肩が上がらなくなり「ごめん、やっぱり投げられない」と断ることもざら。その時その時で言うことを聞かない肩で、振り回してしまう。それでも、盟友が嫌な顔をすることはなかった。中学で初めて対戦し、高校は同僚となり、同じ東京六大学を経て、24年の人生の半分を共にしてきた。鈴木は言う。
「練習を1日やり切って、本来、ゆっくりしたい時間に行くことはしんどかった。でも、お願いする方だってしんどいはず。そのくらい覚悟があったと思うし、何より頼めるのは自分しかいなかったと思うから。本人が一番つらい思いをしていたはず。人一倍の努力をしていたし、もう一度、マウンドで投げる姿を見たかった。だから、お願いされた時は『いいよ』という答えだけだった」
かけがえのない友の支えを受け、「なんとかギリギリ」で間に合った11月。現役続行か、引退か。野球人生をかけたテストに挑んだ。オープン戦2試合に登板。1イニングずつを投げ、抑えた。数日後、チームの勇退者が呼び出された。“上がり”と言われ、構想外の選手に事実上の引退を通告されるもの。その日、吉永が呼ばれることがなかった。これが「現役続行」の知らせだった。
怪我をしてから、1年8か月の歳月が流れていた。一度は普通の会社員になり、野球も取り上げられた。エリート街道を歩んだ野球人生最大の崖っぷち。心が折れるタイミングは幾らでもあった。
なのに、なぜ、そんなに頑張ることができたのか。
少し間を置いて、吉永の口からこぼれた言葉に、息を呑んだ。「それは、やっぱり、いい時代を知っているからですよね」――。「いい時代」が指し示すのは、もちろん、あの夏に他ならない。
「そういう喜びをもう一度、経験したいという思いが、心のどこかにあったから。あの夏、シンカーで三振を取れたことが一番、楽しかった。左打者が来たら、ほぼ取れる感覚。なんで、あんなに投げられたか、今はもうわからない。でも、結果として優勝できた。そういう経験がなかったから乗り越えられなかった。良い思いを知らなかったら、頑張れない。想像だけじゃ、きっと」
甲子園の記憶に苦しめられた男が、甲子園の記憶に助けられ、人知れずに起こした「30%の奇跡」だった。