[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

「競技を辞める方が怖かった」― 皆川賢太郎が貫いた“ずるい選択”をしない生き方

近年、スポーツ界の課題の一つに挙げられるセカンドキャリア問題。競技の第一線を退いた後にどんな道を歩むのか、指導者など競技に携わることができればいいが、全く異なるジャンルに転身を余儀なくされ、アスリートを悩ませることもある。そんなスポーツ界で五輪に4度出場し、トップを極めた選手が異色の道を歩んでいる。アルペンスキーの皆川賢太郎氏だ。

皆川氏にセカンドキャリア論と人を育てる難しさについて聞いた【写真:松橋晶子】
皆川氏にセカンドキャリア論と人を育てる難しさについて聞いた【写真:松橋晶子】

五輪を目指しながら起業、異端の名スキーヤーが語るセカンドキャリア論

 近年、スポーツ界の課題の一つに挙げられるセカンドキャリア問題。競技の第一線を退いた後にどんな道を歩むのか、指導者など競技に携わることができればいいが、全く異なるジャンルに転身を余儀なくされ、アスリートを悩ませることもある。そんなスポーツ界で五輪に4度出場し、トップを極めた選手が異色の道を歩んでいる。アルペンスキーの皆川賢太郎氏だ。

 全日本スキー連盟の常務理事としてマーケティングと強化の重責を担う一方で、11店舗の飲食店を経営する実業家の顔を持つ。しかも、起業したのは現役時代という。なぜ「選手」と「経営者」と二足の草鞋を履くことになったのか。そこで手にしたものは――。「THE ANSWER」では、トップアスリートのセカンドキャリア論と人を育てる難しさについて、話を聞いた。

 ◇ ◇ ◇

 17歳のプロ転向以来、アルペンスキーの第一人者として活躍した皆川氏。五輪には98年長野大会から足掛け12年で4度出場した。競技人生を左右する大きな怪我を何度も経験しながら37歳で引退するまで、トップを走り続けることができた背景には、セカンドキャリアにまつわる、アスリートの“恐怖”があった。

「現役時代、公には手術は2回でしたけど、本当は5回。プロ選手は怪我によって価値が下がってしまうものだから。でも、自分にとっては辞めることの方が怖かった。怪我をした時に何度も引退を考える瞬間はありましたけど、『日本代表の皆川賢太郎です』と言えていたものが、辞めた瞬間から自分が何屋さんなのか分からなくなってしまう。

 没頭してきた道から外れ、『あなたは何屋さんなの?』と言われた時、返せる自分がいないことの方がよっぽど怖いから。できる限り長く現役を続けることしか頭にありませんでした」

 トップ選手の看板が外れた時、自分はいったい何を持った人間なのか。競技に没頭する上で見つけることは難しいもの。転機になったのは、経営者挑戦だ。すでに五輪に3度出場していた23歳の時、懇意にしていた経営者が皆川の地元・苗場スキー場にフードコートを造るにあたり、1店舗の経営を任された。それが、どんぶり店だった。

 オリンピアンでありながら、現役生活との二足の草鞋を履いた。「自分が店舗に立つわけにはいかないので、自分が立たなくていい経営のフォーマットを考えないといけない。それがきっかけです」と振り返る。着実に結果を残し、37歳で引退を迎える頃には店舗は7軒に増加。その裏ではスポーツ選手がビジネスに生きる能力を見い出した。

1 2 3
W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
ABEMA
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集