「競技を辞める方が怖かった」― 皆川賢太郎が貫いた“ずるい選択”をしない生き方
近年、スポーツ界の課題の一つに挙げられるセカンドキャリア問題。競技の第一線を退いた後にどんな道を歩むのか、指導者など競技に携わることができればいいが、全く異なるジャンルに転身を余儀なくされ、アスリートを悩ませることもある。そんなスポーツ界で五輪に4度出場し、トップを極めた選手が異色の道を歩んでいる。アルペンスキーの皆川賢太郎氏だ。
五輪を目指しながら起業、異端の名スキーヤーが語るセカンドキャリア論
近年、スポーツ界の課題の一つに挙げられるセカンドキャリア問題。競技の第一線を退いた後にどんな道を歩むのか、指導者など競技に携わることができればいいが、全く異なるジャンルに転身を余儀なくされ、アスリートを悩ませることもある。そんなスポーツ界で五輪に4度出場し、トップを極めた選手が異色の道を歩んでいる。アルペンスキーの皆川賢太郎氏だ。
全日本スキー連盟の常務理事としてマーケティングと強化の重責を担う一方で、11店舗の飲食店を経営する実業家の顔を持つ。しかも、起業したのは現役時代という。なぜ「選手」と「経営者」と二足の草鞋を履くことになったのか。そこで手にしたものは――。「THE ANSWER」では、トップアスリートのセカンドキャリア論と人を育てる難しさについて、話を聞いた。
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17歳のプロ転向以来、アルペンスキーの第一人者として活躍した皆川氏。五輪には98年長野大会から足掛け12年で4度出場した。競技人生を左右する大きな怪我を何度も経験しながら37歳で引退するまで、トップを走り続けることができた背景には、セカンドキャリアにまつわる、アスリートの“恐怖”があった。
「現役時代、公には手術は2回でしたけど、本当は5回。プロ選手は怪我によって価値が下がってしまうものだから。でも、自分にとっては辞めることの方が怖かった。怪我をした時に何度も引退を考える瞬間はありましたけど、『日本代表の皆川賢太郎です』と言えていたものが、辞めた瞬間から自分が何屋さんなのか分からなくなってしまう。
没頭してきた道から外れ、『あなたは何屋さんなの?』と言われた時、返せる自分がいないことの方がよっぽど怖いから。できる限り長く現役を続けることしか頭にありませんでした」
トップ選手の看板が外れた時、自分はいったい何を持った人間なのか。競技に没頭する上で見つけることは難しいもの。転機になったのは、経営者挑戦だ。すでに五輪に3度出場していた23歳の時、懇意にしていた経営者が皆川の地元・苗場スキー場にフードコートを造るにあたり、1店舗の経営を任された。それが、どんぶり店だった。
オリンピアンでありながら、現役生活との二足の草鞋を履いた。「自分が店舗に立つわけにはいかないので、自分が立たなくていい経営のフォーマットを考えないといけない。それがきっかけです」と振り返る。着実に結果を残し、37歳で引退を迎える頃には店舗は7軒に増加。その裏ではスポーツ選手がビジネスに生きる能力を見い出した。