私は絵になりたかった「日本には逃げ場がない」 努力重視の国でアスリートが闘わされる他人の欲求【田中希実の考えごと】

日本には走りを娯楽と捉える土壌があまりない
そもそもが走りで身を立てている立場としては楽しいだけでいい訳がなく、海外を転戦していてもスポーツの楽しさだけでなく、競技性からくる残酷な側面にも度々晒される。
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そして、日本には走ることを娯楽と捉える土壌自体があまりなく、努力を宗とするため、帰国すると本格的に逃げ場が無くなる。
走ることそのものをきつい鍛錬と受け止め、泥臭い努力の末に順位や結果があるという雰囲気に、走ることに対する感じ方、取り組み方が麻痺してくる。
タイム、順位、さらには襷といった目に見えるもので、努力や絆といった目に見えないものを判断するからだろうか。
結果以外で努力を称えることがあるとしても、それはその人がやりたいことに生き生きと取り組んだからではなく、やりたくないことを嫌でもやったからという理由が多い気もする。
そうして自分が本来どうしたいのか、何を楽しいと感じるのか、そもそも楽しんでいいのかさえ分からなくなってくる。
結果よりむしろ努力重視の日本でさえこの調子なのに、資本主義大国のアメリカでは結果に縛られず、むしろ楽しむことが推奨されているように感じたのはなぜだろうか。それは勘違いというもので、私が単に部外者で、お客様に過ぎなかったからかもしれない。
私は日本の土壌に馴染めないのに、海外から見たら外来種という、根無草に他ならない。
こんな知ったようなことを言うと、またぞろ駅伝やオリンピックでちゃんと結果も出せないくせにとか、プロだろうとか、日本を軽視しているとか、言われてしまうのだろうか。
このような意見は、前半私が述べた通りに、絵や物語の評価、スポーツの結果など、目に見える無機質な物だけが本物として残り、残って来たからこそ価値があるという考えから来るのだろう。そして日本の風土や文化もそのようなものであると、忠実に考えられているのだろう。
しかし、物に秘められた本質、残って来た所以、そしてその変遷についても、これを機に思いを馳せてみて頂きたい。