私は絵になりたかった「日本には逃げ場がない」 努力重視の国でアスリートが闘わされる他人の欲求【田中希実の考えごと】

私は絵になりたい、現実世界から逃げ出して…
私は昔、それこそ絵になりたい、できれば蕗谷虹児の絵になりたいと思ったことがある。現実世界から逃げ出して、永遠に歳を取らない純朴そうな少女として、洒落た服を着て微笑んでいられたら、素敵ではないか。
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もし本の中に入るとしたら、歳は取らないとしても物語に沿って縦横無尽に動き回り続けなければならないのだから、遠慮しておく。心身ともにずっと動かさなくて済むから、絵がいいのだ。そして、本以上にいろんな解釈の余地があるし、そこに佇んでいるだけで、勝手に価値をつけてもらえるのだ。
ランナーのくせに美術館の中を歩いただけで疲れ果てたり、できればじっとしていて評価は他人任せにしたい(しかも良い評価をつけてもらえる事前提)だなんて、なんて保守的で自堕落な奴だろうと思われるかもしれないが、走るというのは、表現したそばから消えてしまう絵や物語のようなものなので、時々怖くなったり虚しくなったりするのだ。
考えてもみてほしい。心身をすり減らし、走りで自分というものを表現しようとする時、結果しか評価されないことを。たとえば絵や物語は、作者の分身とも言えるかもしれないが、走った結果はその人そのものを表現している訳ではないのにである。
どんな結果であれ、確かにその人の知恵、経験、意志などが多分に反映された努力の賜物だが、完璧にその人が歩んだ軌跡は落とし込まれない。無機質な数字を見ただけで、その人の人生の何が読み取れるものか、教えてほしい。
こういったことを全て心得ていても、自分というものが存在した証明には、やはり結果しか残らないかもしれないことも、考えてみてほしい。絵や物語は評価されることこそが結果だが、スポーツはその逆で、結果そのものが評価されるため、どう転んでも価値は変わらないし、どう解釈しようとしても、結果が単に結果としてしか残らないのにである。
後世に残るのはもちろん結果だけでなく、ランナーであってもこのように、文章で考えを残すこともできれば、今の時代、映像に走っている姿を留めることもできるだろう。ただ、そのコンテンツに誰かが興味を示し、アクセスしてくれるかどうかは、やはりその人の結果次第の部分がある。
私は今紛れもなく存在して、考え、走っているのに、誰にも知られないまま終わる事柄もあるだろうし、自他共に忘れていく事柄もあるだろう。何かを残すより、まず自分で納得することを求めているにしても、それすらできずに、衰えていくかもしれない。だから、存在そのものが評価に値し、歳を取らない絵になりたいという訳だ。
性懲りも無くこうして文章を書いていても、やはりランナーの私にとって、まず先に立つのは結果、結果、結果なのである。
もちろん、絵や物語は、完成形に納得できるかどうかが作者にとって勝負なわけで、納得できるものが完成したとしても、もし評価されなければ、その作者自身が否定されたような気持ちになるだろう。だから私は文章を書くのも最近怖い。作家でもなんでもないのにこれなのだから、世の中の作家や芸術家たちはどんな恐怖と戦っていることか。