「死んでもいいから生きたい」 走る私が抱えた究極のエゴ、その発端は享年24歳の偉人ランナー【田中希実の考えごと】
「生きてさえいればなんだってできる」 前向きな言葉を受け付けないくらい、私は参っていた
この情緒を説明するには、まず大会前に調子が調わなかったということまで遡らないといけない。なんだそんなことか、と思われるかもしれないが、東京五輪のタイムを引っさげてダイヤモンドリーグという世界最高峰の陸上大会シリーズに、こともあろうに1500mでエントリーできたのである。
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にも関わらず、東京五輪同等のメンバーの中で戦うには、調子はあまりにも間に合っていなかった。タイムも順位も、1年前には対等に戦えていた選手たちにこてんぱんにやられることが、怖かったのかもしれない。あるいはそれによって自分自身さらに落ち込んでしまうこと、そのトラウマをオレゴン世界陸上まで引きずってしまうことが怖かったのかもしれない。
なにしろ同じ競技場で開催されるのである。あるいは、初めて出場するダイヤモンドリーグがこんなことでは、招待してくれた大会側を失望させ、斡旋してくれたエージェントの顔を潰し、もうお呼びはかからないかもしれないということが怖かったのかもしれない。
何もかもが怖くて練習中グズグズしていた時、父から、お前は生きているんだから、何があっても次に向けて挑戦することができるんだからと言われた。
しかし、明日があるさ。生きてさえいればなんだってできる。みんながついてる、人間一人じゃ生きていけないよ。ありのままの自分を大事にね。といった色んな人がかけてくれる前向きな言葉を何も受け付けないくらい、私はほとほと参っていた。
生きているからこそ悩むのだから、思い切りこうしてグズグズすること、そして他者を不快にさせ迷惑をかけることも私が生きていることそのものなのだから、好きにさせてくれ、という心境だった。そんなに苦しむのなら走らなければいいとも言われたが、それでも尚走ろうとすることが、私にとってせめてもの運命への反抗だったし、生きているということだった。
父の言葉尻に、日本を留守にしている間、誰か大切な知り合いに不幸があったのだ、それを父は伏せているのだ、ということも感じられ、誰だ、誰なんだ!?と失いたくないあらゆる人の顔をさらった。こんなことならもう、私にも明日はあってほしくないと思った。
夕食でアジアンビュッフェレストランに行くと、アメリカならではのフォーチュンクッキーが出てきた。恐る恐る開けてみると、“There is so much more to come”と書かれた紙が出てきた。
訳してみると、「本番はこれからさ」という、いかにもアメリカチックな前向きな励まし文句だったが、私は戦慄した。本番…? こんなにも苦しいのに、これ以上どんな災厄が来ると言うのだろう!? おまけに“so much”と来たもんだ! もう沢山だと言うのに。
満身創痍で向かったレースは最下位で、シーズンベストさえ出せなかった。自分より格上の胸を借り、タイムを出しやすいダイヤモンドリーグでである!
それでプリに泣きつきに行ったという訳だが、やっぱり本番はこれで終わらなかった。