選手は散り散り、グラウンドには住宅…すべてが消えた日産野球部、15年ぶり復活助けた“先見の明”
2009年を最後に休部した日産自動車の野球部が、2025年から復活する。新監督に決まった伊藤祐樹さんは現在「日産野球部復活プロジェクト」専任で、選手の勧誘や環境整備に奔走している。休部当時は選手兼任コーチだったがその後も会社に残り、野球部の復活を願ってきた。これほど長い間、活動を止めていた企業チームの活動再開は異例中の異例。30代後半から向き合った会社員としての日常に悪戦苦闘しながらも、紡ぎ続けた細い糸が復活には不可欠だった。(取材・文=THE ANSWER編集部、羽鳥慶太)
伊藤新監督、37歳で始まった第2の会社生活は“指1本”から
2009年を最後に休部した日産自動車の野球部が、2025年から復活する。新監督に決まった伊藤祐樹さんは現在「日産野球部復活プロジェクト」専任で、選手の勧誘や環境整備に奔走している。休部当時は選手兼任コーチだったがその後も会社に残り、野球部の復活を願ってきた。これほど長い間、活動を止めていた企業チームの活動再開は異例中の異例。30代後半から向き合った会社員としての日常に悪戦苦闘しながらも、紡ぎ続けた細い糸が復活には不可欠だった。(取材・文=THE ANSWER編集部、羽鳥慶太)
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日産野球部は最後の1年、夏の都市対抗野球と秋の日本選手権でともに4強まで進出した。最後の試合は、後に優勝するJR九州を相手に延長13回に及ぶ大熱戦。皆が野球部との別れを惜しむスタンドや会社の熱狂は、伊藤さんの心に深く刻まれた。12月限りで野球部は活動を停止。後に王子製紙を経て西武入りする熊代聖人、日本製紙石巻を経てヤクルト入りする久古健太郎ら若手は他チームに移り、選手は散り散りとなった。
当時、入社15年目の37歳だった伊藤さんは会社に残る道を選んだ。国内営業部門に配属され、生産計画の立案や運用に3年、その後は神奈川県内のディーラーに出向して管理職も務めた。「業務で絡む人が、みんな『野球部の伊藤だ』と知ってくれていたのはやりやすかったです」と言う一方で、ビジネススキルはPCのキーボードを、指1本で打つところからのスタートだった。
「仕事の流れもわからないし、メールを打つにしても文章にならないんです。しゃべっているそのままを書いてしまうんですね。今だから笑い話にもできますが……」
野球部は午前中が業務で、午後が練習という日々を送っていた。「だから休部になって『会社に入る練習』をしましたよ。メールの文章作成やエクセルの使い方を1週間くらいやったのかな。グラウンドの隣に教育センターという施設があったので、そこで。新人の子たちがやる研修ですね」。入社間もない女子社員に一つ一つ、時には厳しく教えてもらいながら、仕事を覚えていった。
そして、チームがもはや存在しないという寂しさも味わった。「野球部から引退した選手たちにとって、後輩の活躍は仕事のモチベーションにもなっていたと思うんです。他のチームの選手に聞くと、やっぱり(都市対抗の)予選や東京ドームへ応援に行くと言いますからね。でも私たちにはそれがなかった。休部以降は何年も、予選にもドームにも行きませんでした」。
野球とのつながりといえば、息子の少年野球を父兄として見守るくらいだった。それもディーラーが職場になると、土日が仕事になり行けなくなった。もはや姿が見えない野球部。その命脈を保つ細い糸を紡ぎ続けたのが、伊藤さんだった。