「野球でクルマが何台売れるかといえば…」 復活する日産自動車野球部、新監督が語る休部のリアル
ゴーンショックを乗り越えたはずが…最後の戦いを終えて残った後悔
伊藤さんは当時の野球部を取り巻く空気を「これは絶対に負けられないと思いました。部長や監督には、休部の一歩手前まで行っていたと聞いていましたから」と振り返る。ところがゴーン氏は東京ドームに足を運び、野球部の戦いを「日本の企業文化。応援している」と称賛した。認められた、と思った。
【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら
休部通告はそれから10年後。「本当に突然来た感じで……。活動停止と結びついていなかったんです。残された1年で、どういう幕引きをしようかと。ちゃんと日産の野球をしないといけないと、そればかり考えていましたね」。納得はできなくても、最後の日は迫ってくる。歴史に刻もうとした日産の野球とは――。
「そりゃもう、厳しいですよ。当たり前のことを当たり前にやる。それについて来られなければいられなくなる。叩き上げで、自分の居場所を作ったヤツしか残っていけないチームでした」。ただこの時期、日産野球部は新旧交代の時期を迎えていた。「若い選手が増え、物足りないところもありました。でももう、叩き上げている時間はない。だから皆には、若手ベテラン関係なく、自分のできることを精一杯全力で持ち寄って勝負していこうと伝えました。そんな中で、チームとしては本当によく頑張ったと思います」。
休部宣告を受けて戦った2009年、日産野球部は都市対抗野球で4強入り。秋の日本選手権でも準決勝で延長13回に及ぶ死闘の末、のちに優勝するJR九州に敗れた。最後の1年を戦い抜いた伊藤さんには、覚えている景色がある。
「最後だからというのもありましたけど、会社の皆さんが本当に、ものすごく応援してくれたんです。それまではコアな、野球部を好きな人が熱心に応援してくれたという感じだったんですが、全然違いました。終わりながら『なんでずっと、こうできなかったんだろう』と思っていました」
今度は、永続する野球部を作り上げる番だ。抱えてきた後悔は、新たなチームづくりに生かされる。
(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)