ブラジルの名SBロベカルがライバルと認めた男 「辛い決断」から築いた日本での名声
セレソンへの夢を諦め、横浜FM黄金期の一員として活躍
「僕は欧州へ行きたかった。でもクラブが相当な金額をふっかけて実現を阻んだ」
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さらにフランスW杯を翌年に控えた1997年には、監督と衝突し、以後短期のレンタルを繰り返すことになる。やがて欧州からの誘いは減り、結局2001年に横浜FMからの短期レンタルを受けることになった。
「短い貸し出しだから、終わったらブラジルに戻るか、欧州に出ようかと考えていた。でもレンタル期間が終わると、マリノスから『もう1年残ってくれないか』と言われた。正直なところ、辛い決断だった。日本にいたら、たぶんセレソンの監督には見てもらえない。代表で活躍する夢は終わったんだ、と考えるしかなかった」
しかし、その後の横浜FMでの活躍は周知の通り。ロベルト・カルロスとセレソンのSBを争った実力は、日本のピッチでしっかりと証明された。
(文中敬称略)
(加部 究 / Kiwamu Kabe)