外せば「死ぬまで叩かれる」 李忠成の伝説ボレー弾、脳裏によぎる恐怖が消えた不思議な数秒間
アジアカップ決勝の伝説ボレー弾「海外でも声をかけられた」
何より内面に大きな変化をもたらしたのは、2010年南アフリカW杯だった。
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「広島で友だち20人くらいと一緒にスポーツバーへ出かけて、レモンサワーを片手に日本代表の試合を観戦していたんです。画面の中では、つい2年前に五輪で一緒にプレーしていた連中が活躍している。『俺はいったい何をやっているんだ』と悲しくなりました。その時ですね。『4年後には、絶対にコイツらと一緒にワールドカップに出るんだ』と決めたのは。それから日本代表で戦うために、海外移籍を強烈に意識するようになりました」
ただし広島でも、なかなか出番は巡ってこない。ようやくミハイロ・ペトロヴィッチ監督がリーグ戦でスタメンに抜擢したのは、佐藤寿人が故障し、山崎雅人も風邪を引き、他にFWの選択肢が見当たらない試合だった。当時「サッカー批評」誌でのインタビューで、李は語っていた。
「山崎さんは風邪だから必ず翌週には戻って来る。だから僕はここで結果を出さなければ終わり。でも、そこからゴールが続く(終盤12試合で11ゴール)ようになったんです」
この快進撃で日本代表に選ばれると、2011年初頭のアジアカップでは、早くも開幕のヨルダン戦後半から出場しデビューを果たす。だが同大会では、それから決勝戦まで出番が訪れなかった。
「いつもベンチで見ている時は、勝手にシナリオを作り上げているんです。0-0とか1-1でオレに回って来い。そして回って来たら心の中で呟くんです。『オレのために舞台を整えてくれてありがとう』って。そうやって脳みそに勘違いさせることも大切なんです。アジアカップだけではなく、浦和(レッズ)時代にJリーグカップ決勝(2016年)で途中から出てMVPを獲得した時もそうでした」
決勝戦まで上り詰めた日本は、オーストラリアと互いに一歩も譲らず、試合は延長戦に突入する。李がピッチに出て行ったのは98分だった。
そして109分、ゴール前でフリーの李の胸元近くに、長友佑都が絶好のクロスを送り込んできた。ボールが到達するまでの数秒間には、様々な想いが脳裏を駆け巡った。
――これを外したら大変なことになる。決めればヒーロー、でも外せば死ぬまで叩かれる――。
だが不思議とトラップすることは頭になかった。「打つと決めて、ビビる前に叩いていた」という。
「あのボレーは僕の名刺になりました。それほど大きな反響が来るとは思ってもいなかったので、海外でも『あのシュートは見ていたよ』と声をかけられると嬉しかったですね。あの頃は日本代表に生き残ることで必死でした。だからゴールを決めれば次も呼ばれる。それしか考えていなかった」