外せば「死ぬまで叩かれる」 李忠成の伝説ボレー弾、脳裏によぎる恐怖が消えた不思議な数秒間
多くの人の記憶に残るゴールを決めた1人のサッカー選手が、今季限りで現役生活に別れを告げる。元日本代表FW李忠成は在日韓国人として生まれ、21歳の時に日本へ帰化。現在所属するアルビレックス新潟シンガポールに至るまでの20年間のプロ生活は、念願の北京五輪出場をはじめ、2011年アジアカップ決勝の伝説的なボレーシュート、負傷に泣いた欧州挑戦、人種差別問題など激動に満ちていた。スパイクを脱ぐことを決断した今、旧知のスポーツライターに自身のキャリアを振り返りながら本音を明かす。インタビュー第3回では、キャリアのハイライトと言える2008年の北京五輪から12年のサウサンプトン移籍までの日々を辿る。負傷の影響で五輪後も低調だった李だが、10年ワールドカップ(W杯)での同世代の活躍に刺激を受けゴールを量産。そして11年1月のアジアカップ決勝で、あの伝説のゴールが生まれた。(取材・文=加部 究)
李忠成・現役引退インタビュー第3回、北京五輪で味わった失意からの飛躍
多くの人の記憶に残るゴールを決めた1人のサッカー選手が、今季限りで現役生活に別れを告げる。元日本代表FW李忠成は在日韓国人として生まれ、21歳の時に日本へ帰化。現在所属するアルビレックス新潟シンガポールに至るまでの20年間のプロ生活は、念願の北京五輪出場をはじめ、2011年アジアカップ決勝の伝説的なボレーシュート、負傷に泣いた欧州挑戦、人種差別問題など激動に満ちていた。スパイクを脱ぐことを決断した今、旧知のスポーツライターに自身のキャリアを振り返りながら本音を明かす。インタビュー第3回では、キャリアのハイライトと言える2008年の北京五輪から12年のサウサンプトン移籍までの日々を辿る。負傷の影響で五輪後も低調だった李だが、10年ワールドカップ(W杯)での同世代の活躍に刺激を受けゴールを量産。そして11年1月のアジアカップ決勝で、あの伝説のゴールが生まれた。(取材・文=加部 究)
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李忠成は、日の丸を背負う最初の晴れ舞台となる2008年北京五輪の直前に半月板を損傷していた。
「試合になれば、チクチクはするけれどプレーはできてしまう。でもすぐに膝に水が溜まるし、終わった後には激痛が来て反動が物凄かった」
メディカルからストップがかかっても不思議はない状態だった。しかしそれでも五輪代表を率いる反町康治監督は、李に告げた。
「一緒に(五輪へ)行くぞ!」
激痛とも闘いながら、李は「気持ちが吹っ飛ぶくらい走りまくり」爪痕を残した。しかし日本は、米国、ナイジェリア、オランダに3連敗して、呆気なくグループリーグで大会を去る。
「あの時のチームは、みんな向上心の塊で、本田圭佑、長友佑都を筆頭に誰もがギラギラしていて『オレたち、世界へ出て行くんだ』と魂の燃え方が違った。僕もそうでしたけれど、海外のスカウトにどう見られるかばかりを考えていたと思います。だからその分、チームはバラバラだった。あれでは強豪国には勝てない」
大舞台で怪我を押してプレーした反動は、心身ともに甚大だった。
「五輪を終えて膝の手術をして、ある程度のプレーをしていれば、柏のサポーターは優しかった。でもそんな舐めたサッカーをしていたら当然パフォーマンスも下がってくる。自分でも『このままじゃダメだ』と環境を変える決断をして、(サンフレッチェ)広島へ行ったんです」