「LEEの姓を背負うこと」に意味があった 21歳で日本に帰化、李忠成が人生の決断に込めたメッセージ
母の言葉で気づかされた大切なこと
FC東京でのプロ1年目で出場機会がなく挫折しかけた時には、韓国のU-19代表合宿参加への道を繋げ、後にFC東京との契約延長を辞した際には、柏レイソルからのオファーの契機を作った。
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「結局この頃までは少しでも両親が喜ぶ姿を見たくて頑張ってきたと思います。FC東京でサッカーを辞めなかったのは、長澤徹コーチが毎日居残りで30分間くらい一緒にボールを蹴り、『諦めるなよ』と言い続けてくれたからです。現在は京都(サンガF.C.)に在籍されていますが、長澤コーチがいなければすぐに諦めていたと思います」
当時家庭内では、潔くきっぱり諦めて「ホスト転向」の話題も出ていたので、もしかすると現在のROLANDの指定席は先に李が占めていた可能性もあった。
さらに柏に移籍してからも、石崎信弘監督との折り合いが悪かった。
「僕が生意気で『試合に出してよ』とか言い続けていたんです。そんな調子だから石さんも『おまえ、その人間性を直さない限り、ワシは絶対に出さん!』と寄せつけない。ある晩、そんな状況を聞きつけた母が泣きながら電話をしてきました。『嘘でもいいから、とにかく石さんの言うことを聞いてよ。これから1週間はハイしか言わないで』って。
結局1か月間くらいは『ハイ、ハイ』と言い続けていたら、石さんが『おまえ、変わったなあ』と言い出した。それからです。石さんも、いろいろ話してくれるようになり『お母さんのおかげだぞ、馬鹿野郎』なんて言いながら、試合にも出してくれるようになりました」
自分が変われば、相手も変わる。それは後に浦和レッズでサポーターによる「JAPANESE ONLY」事件に遭遇した際にも、乗り越えるための重要なヒントになったという。
李は柏がJ2で戦った2006年にレギュラーに定着し、J1へ復帰した2007年2月に日本国籍を取得する。瞬く間に周囲を巻き込む喧噪は、まだ21歳の彼には想像がつかなかった。
「とにかくLEEの姓を背負って五輪に出て結果を残したかった。LEEという日本人がいるのか?――そう気づいてくれたり、興味を持ってくれる人たちが増えたりするかもしれない。そこに意味があったんです。東京朝鮮第九初級学校時代には、息苦しい想いで毎日を過ごしている友だちをたくさん見てきました。だから悩んでいる人たちに、一つの道を示すことで力になりたかった」