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新スタジアム誕生で30年の歴史に幕 「老朽化は否めない」広島ビッグアーチに抱く複雑な心情

Jリーグが開幕した1993年の8月から、サンフレッチェ広島とビッグアーチの歴史を見つめてきた運営部部長の白石聡氏【写真:宇都宮徹壱】
Jリーグが開幕した1993年の8月から、サンフレッチェ広島とビッグアーチの歴史を見つめてきた運営部部長の白石聡氏【写真:宇都宮徹壱】

2002年ワールドカップの立候補断念と初めてのJ2降格

 ビッグアーチに話を戻す。

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 白石が初めてスタジアムを訪れた時、思い出したのが、高校選手権の開幕式で行進した国立競技場だったという。2002年の日韓ワールドカップに向けて、各地に巨大なスタジアム群が作られる以前、ビッグアーチは国立競技場や神戸総合運動公園ユニバー競技場に次ぐ規模を誇っていた。

「ビッグアーチといえば、アジアカップのメイン会場となっただけでなく、2年後(1994年)にもアジア大会が開催されているじゃないですか。ですから当然、2002年のワールドカップの会場にも選ばれると思っていたんですよ。ですから、立候補を辞退と聞いた時は『ええっ!』と思いました。理由は『屋根が付けられないから』というのにも、当時は驚きました」

 白石が語る通り、当初、平和都市・ヒロシマでのワールドカップ開催は「既定路線」と思われていた。当時のFIFA会長ジョアン・アヴェランジェの推薦もあったし、当時のJFA会長の長沼健も広島出身で、自身も被爆体験があった。

 ただし開催規格を満たすためには、バックスタンドへの屋根の架設と座席改修工事が必須となり、その費用はおよそ140億円。しかも韓国との共催が決まったことで、割り当てられる試合数が3試合となったことから、当時の市長が改修しないことを表明。広島は早々に、開催招致レースから撤退した。

「2002年で印象に残っているのは、ワールドカップよりも、初めてのウチのJ2降格が決まったことですね。まさか自分たちが落ちるとは、思ってもみなかった。でも『落ちる時って、こうなんだな』というのが、当時の実感でした」

 広島ではワールドカップが開催されず、クラブから代表メンバーが選出されることもなかった2002年、サンフレッチェはJ1残留を懸けた戦いを続けていた。そして待ち受けていたのが、クラブ史上初となるJ2降格。翌2003年もまた、白石にとって思い出深いシーズンとなった。

「この年、ウチと昇格争いをしていたのは、アルビレックス新潟と川崎フロンターレでした。特に新潟は、J2とは思えない集客を誇っていて、4万人以上が入ったアウェー戦もありました。その時は1-3で負けましたが、ホームでの最後の直接対決では1-0で競り勝つことができました。確かこの試合は、シーズン最多入場者数だったはずです」

 調べてみると、2万6158人で最多だった。J2に降格したことで、全体の集客は下がっていたものの、川崎とのホーム開幕戦が1万2426人、サガン鳥栖とのホーム最終戦は2万2052人がビッグアーチに詰めかけている。こうした後押しもあり、この年の広島は新潟に次ぐ2位でフィニッシュ。1年でのJ1復帰を果たした。

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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