「選手が車の中で着替えていた」 衝撃の光景から24年、J2水戸が追求する市民クラブの理想像
1993年5月15日、国立競技場での「ヴェルディ川崎VS横浜マリノス」で幕を開けたJリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、93年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。
連載・地方創生から見た「Jリーグ30周年」第3回、鹿島・水戸【前編】
1993年5月15日、国立競技場での「ヴェルディ川崎VS横浜マリノス」で幕を開けたJリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、93年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。
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長年にわたって全国津々浦々のクラブを取材してきた写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、2023年という節目の年にピッチ内だけに限らない価値を探し求めていく連載、「地方創生から見た『Jリーグ30周年』」。第3回は茨城県の2クラブを訪問。前編では、J2クラブとしては最長となる24年目のシーズンを戦う水戸ホーリーホックの姿を追った。(取材・文=宇都宮 徹壱)
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「Jリーグが開幕した1993年、僕は水戸の予備校に通う浪人生でした。水戸駅の8番線から出ている、大洗鹿島線の新鉾田が実家の最寄り駅。そこから水戸に行くよりも、逆方向のカシマサッカースタジアムに向かうほうが、もしかしたら多かったかもしれない(笑)。5月16日の名古屋グランパス戦で、ジーコさんがハットトリックした瞬間も、サポーター席で目撃しました」
2020年に水戸ホーリーホックの社長に就任した小島耕が、意外な過去を語ってくれたのは、J2第10節の藤枝MYFC戦の4時間前のことである。
この前日、私は鹿島アントラーズのホームゲームを取材後、鹿島サッカースタジアム駅から大洗鹿島線に乗車して水戸に移動している。今から30年前、若き日の小島が水戸の予備校とスタジアムを行き来していたことを、この時に初めて知った。
Jリーグ開幕時の鹿島のインパクトに比べると、茨城の県都に誕生したJクラブの印象は極めて薄い。水戸ホーリーホックがJリーグに加盟したのは、J2が発足して2年目の2000年。ちなみにこの年に鹿島は、J1とナビスコカップ(現ルヴァンカップ)と天皇杯の3冠を制している。
「実家の父から『水戸ホーリーホックというJクラブができて、近所でも練習しているらしい』という話を聞いて、見に行くことにしたんです。それまで鹿島の練習グラウンドには、何度も見学に行っていたので、あれが僕の中でのスタンダードだったんですよ。ところが水戸の場合、当時は決まった練習場がなくて、選手たちは自分で運転してきた車の中で着替えていたんですよね。あれは衝撃的でした」
ふと見ると、シュート練習をするためのゴールにネットが張られていなかった。枠を捉えたシュートも、どんどん向こう側に転がっていく。居ても立ってもいられなくなり、ゴール裏に回ってボール拾いを始めると、GKから「あ、どうも!」とお礼を言われた。それが、当時20代半ばだった本間幸司。46歳となる現在も、水戸でプレーを続けているレジェンドだ。
「それから20年くらい経って、僕が水戸の取締役になった時に、幸司から『初めまして!』と言われたので『いや、初めましてじゃないよ(笑)』と。それが、僕と水戸ホーリーホックとのファーストコンタクトでした」
あの時の飛び入りボール拾いが、のちにクラブ社長となることなど、本間はもちろん当の小島自身も知るよしはなかった。