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「ベッカム様」フィーバーから20年 ソフトモヒカン大流行、日韓W杯で社会現象の背景

“愚か者”となった1年後にマンチェスター・Uで3冠達成

 もちろん、これはベッカムにとって負の大事件だった。しかし同時に、このレッドカード事件でベッカムを知らぬ者は英国で皆無となったことは間違いない。

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 ベッカムは開催国フランスから、激怒したイングランド人ファンが待ち受ける英国に帰国することができず、当時はまだ恋人だったヴィクトリアと渡米。ニューヨークに滞在した。

 この時、ニューヨークのブルックリンで子供を授かったことで、その地名を長男に命名したことは、この頃少し“バカップル”的な扱いを受けていたポッシュ&ベックスらしいエピソードではある。それはさておき、バッシングが収まらない英国では業を煮やしたファーガソン監督が、テレビに出演して「ベッカムを守る」と宣言した。

 無論、感情的にスコットランド人闘将が敵対意識さえあるイングランドの民衆の敵No.1となった愛弟子をかばうことは、それほど困難なことではなかっただろう。しかし、サポーターにとっては“神”とも言える存在だったファーガソン監督が擁護を公言したことで、マンチェスターにベッカムが帰ってくる場所が生まれた。

 こうして始まった1998-99シーズン、ベッカムはマンチェスター・Uトレブル(3冠/プレミアリーグ、FAカップ、UEFAチャンピオンズリーグ=CL)の原動力となる鬼神の働きを見せた。CL決勝で奇跡の逆転劇に繋がったのは、デッドボールの天才だったベッカムのトレードマークとも言える、大きな弧を描いて相手のゴール前を襲う2本のコーナーキックが起点だった。

 そして、その後のベッカムの運命を大きく変える出来事が翌2000年11月に起こる。イングランド代表主将に任命されたのである。当初はケビン・キーガン監督の辞任で暫定監督となったピーター・テイラー監督に抜擢されたが、その後、正式監督に就任したスヴェン=ゴラン・エリクソン監督もベッカムを主将に指名した。

 ただし、元々スター選手が大好きで、軽薄なところもあるスウェーデン人監督にとって、ベッカム主将は渡りに船と言うべき当然の人事。その後は当時のイングランド代表でベッカムと人気を二分した初代ワンダーボーイのマイケル・オーウェンとともに寵愛した。

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森 昌利

1962年生まれ、福岡県出身。84年からフリーランスのライターとして活動し93年に渡英。当地で英国人女性と結婚後、定住した。ロンドン市内の出版社勤務を経て、98年から再びフリーランスに。01年、FW西澤明訓のボルトン加入をきっかけに報知新聞の英国通信員となり、プレミアリーグの取材を本格的に開始。英国人の視点を意識しながら、“サッカーの母国”イングランドの現状や魅力を日本に伝えている。

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