「あの4トウの映像は観られない」 20年経っても消えない“五輪4位”本田武史の悔恨
「THE ANSWER」は北京五輪期間中、選手や関係者の知られざるストーリー、競技の専門家解説や意外と知らない知識を紹介し、五輪を新たな“見方”で楽しむ「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」を連日掲載。注目競技の一つ、フィギュアスケートは「フィギュアを好きな人はもっと好きに、フィギュアを知らない人は初めて好きになる17日間」をコンセプトに総力特集し、競技の“今”を伝え、競技の“これから”につなげる。
「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#32 本田武史の「北京五輪展望」第3回
「THE ANSWER」は北京五輪期間中、選手や関係者の知られざるストーリー、競技の専門家解説や意外と知らない知識を紹介し、五輪を新たな“見方”で楽しむ「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」を連日掲載。注目競技の一つ、フィギュアスケートは「フィギュアを好きな人はもっと好きに、フィギュアを知らない人は初めて好きになる17日間」をコンセプトに総力特集し、競技の“今”を伝え、競技の“これから”につなげる。
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羽生結弦(ANA)、宇野昌磨(トヨタ自動車)、鍵山優真(オリエンタルバイオ・星槎)が出場する男子シングルは、今大会もメダル獲得の期待が高まっている。五輪に2大会連続出場したプロスケーターの本田武史氏が、最もメダルに近づいたのは総合4位となった2002年ソルトレークシティ大会でのこと。当時の激闘を振り返りながら、五輪という大舞台で戦う重圧や意義について話を聞いた。(取材・文=松原 孝臣)
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五輪は他の大会とは違う特別な舞台だとしばしば耳にする。では何が、五輪をそうした大会にさせているのか。
本田武史は1998年の長野、2002年のソルトレークシティと五輪に2度出場している。長野大会は高校2年生の時の出場で、15位の成績を残した。16歳だった当時を振り返る。
「日本での開催だったので会場も市内も盛り上がっていましたね。オリンピックはこういうものかと思いつつ、でも16歳だったので何がなんだか分からない状態というか。世界との壁も感じていたし、どれだけノーミスでも10番以内に入るのが難しかった。少しでも世界のトップに近づけるように、というところで迎えたのが長野です」
大会を終えて、すぐに「次へ」とはならなかった。
「出たことで満足、達成感がありましたし、海外に戻らなくてもいいかなという気持ちもありました」
本田は長野五輪を前に、アメリカを拠点にして練習していたが、当時は携帯電話もインターネットもまだ現在のように普及していない時代だ。海外へ戻って生活することへの不安があった。スケートはもういいかなとも思ったという。それでも2週間休むと、自然にリンクに足が向いた。
スケートを再開してしばらく経った時、出会いがあった。カナダのコーチ、ダグ・リーである。
1998年12月から指導を受け始めると、成績は向上していった。98-99シーズン、新たに創設された四大陸選手権で優勝し、初代チャンピオンに輝くと、2001-02シーズンにはグランプリファイナルにも初めて進出を果たした。長野の頃とは、確実に地位は異なっていた。
「世界でちょっとずつ名前が出て注目されるようになっていきました。ソルトレークシティに向けて、メダル争いもいけるかなと考え始めて、ただメダルはどうだろう、でも闘えるよね、と自信も出てきていました」