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「あの4トウの映像は観られない」 20年経っても消えない“五輪4位”本田武史の悔恨

SP2位となり生まれた「ちょっとした隙」

 迎えたソルトレークシティ五輪では、不思議な心持ちにあった。

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「リンクの外ではソワソワするけれど、リンクの中では平常心。靴を履いてリンクに立つと、『できる、失敗するわけはない』という感じで」

 演技の記憶がないというほど集中の高まったショートプログラムで、本田は2位につける。

「その翌日の公式練習、それまでほとんどいなかったのに記者やカメラマンが一気に増えましたね」

 そこは気にせずにマイペースを心がけた。ただ、「追われる恐怖はありました」。本田の下の順位にはエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)、ティモシー・ゲーブル(米国)ら錚々たる顔ぶれがいた。

 そして、本田は語る。

「(ショートプログラムで)2位になって、メダルを獲りたいとなって、ちょっとした隙ができてしまったかなと思います」

 その言葉が指し示すのは、フリーで4回転トウループの着氷がステップアウトになった場面だ。総合成績は4位。日本男子フィギュアの歴史上、十分に価値ある成績だったが、本田の受け止め方は異なる。

「あれから20年経ちますが、あの4トウの映像だけは観ることができません。あの1個でメダルを逃した、と思うと……」

 消えることのない悔いを思わせた。

 一方で、2度目のオリンピックが残した別の感情もあった。

「前のオリンピックは15位、そこから4年でメダルを獲れるか、というところまで来た。(アレクセイ・)ヤグディンやプルシェンコもいる大会で、オリンピックのマークの上に立った瞬間、世界の何億人の人が観ているんだ、という感覚を覚えました。しかも限られた人しか立つことができない場所です。オリンピックが楽しかったですね」

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本田武史


1981年3月23日生まれ、福島県出身。14歳で全日本選手権初優勝を果たすと、98年長野五輪に16歳で初出場。2002年ソルトレークシティ五輪にも出場し、4位入賞を果たした。世界選手権で銅メダルを2度獲得したほか、日本人選手として初めて競技会で4回転ジャンプを3回成功させる偉業を成し遂げるなど、日本男子フィギュア隆盛の礎を築いた。現在はプロフィギュアスケーターとして活躍する傍ら、テレビ解説者、そして指導者として後進の育成に力を注いでいる。

松原 孝臣

1967年生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わり、再びフリーとなってノンフィクションなど幅広い分野で執筆している。スポーツでは主に五輪競技を中心に追い、夏季は2004年アテネ大会以降、冬季は2002年ソルトレークシティ大会から現地で取材。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)、『フライングガールズ―高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦―』(文藝春秋)、『メダリストに学ぶ前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)などがある。

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