たった「0.17点差」で五輪を逃した中野友加里 3年間引きずった2009年12月27日の記憶
スポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る「THE ANSWER」の連載「THE ANSWER スペシャリスト論」。フィギュアスケートの中野友加里さんがスペシャリストの一人を務め、自身のキャリア、フィギュアスケート界などの話題を定期連載で発信する。
「THE ANSWER スペシャリスト論」フィギュアスケート・中野友加里
スポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る「THE ANSWER」の連載「THE ANSWER スペシャリスト論」。フィギュアスケートの中野友加里さんがスペシャリストの一人を務め、自身のキャリア、フィギュアスケート界などの話題を定期連載で発信する。
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今回は「中野友加里とオリンピック」前編。2022年北京五輪が控えるフィギュアスケート界は10月からグランプリ(GP)シリーズが始まり、本格的にシーズンに突入した。現役時代、バンクーバー五輪代表選考を兼ねた全日本選手権で「0.17点差」で五輪切符を逃した経験を持つ中野さん。当時の舞台裏を明かし、アスリートにとっての五輪挑戦の価値を語る。(取材・文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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中野友加里というスケーターのキャリアで語り継がれる大会の一つは、あの冬の大阪だろう。
2009年12月、全日本選手権。翌年2月に迫ったバンクーバー五輪の代表選考を兼ねた大舞台は、スポーツ界の注目の的になっていた。GPファイナル2位に入っていた安藤美姫がすでに代表当確。3枠あるうちの残り2枠を浅田真央、鈴木明子らと争う構図だった。
フジテレビに就職が内定し、このシーズン限りで引退することが決まっていた中野さん。しかし、フリーの後に行われた表彰台で立っていたのは「3」と書かれた場所だった。1位の浅田、2位の鈴木が代表内定し、3位の中野さんは落選。2位との差はわずか「0.17」――。
「0.17点差でも0.01点差でも(2位が)上。状況を考えても『ああ、これで終わったな』と。どうやって親に顔を見せよう、なんて話せばいいんだろう、謝った方がいいのかな、辞めると伝えた方がいいのかな……。いろんなことが頭の中を駆け巡り、ずっと泣いていました」
五輪を「人生の目標だった」と表現する。
「その時、私にはスケートしかなかったので。『スケート人生』から『スケート』という文字を取ってしまってもいいくらい“人生そのものとしての目標”でした」。憧れが芽吹いたのは小学生時代。同じリンクで練習していた同郷の伊藤みどりの姿を見て、無垢に信じた。
「大きくなったら、私もきっとオリンピックに出られるんだ」。憧れはキャリアを重ねるごとに、夢としてくっきりと輪郭を帯びた。競技人生でチャンスがあったのは2度。1度目は2006年トリノ五輪。20歳で2005年のGPシリーズNHK杯優勝。GPファイナル3位に入り、スポットライトを浴びた。
「当時は五輪代表候補という立ち位置でもありませんでした。周りの選手からすれば『あら、あなたいたの?』くらい。でも、とんとん拍子に結果を残せたし、自分にとっての目標は五輪だったので、出られるものなら出たいと思い、近い存在になってきたシーズンでした」
全日本選手権は5位に終わり、五輪代表を逃したものの、トリノ五輪直後の世界選手権代表に選出された。この年から3年連続で代表を掴み、5位、5位、4位とトップ5に入ったほか、冬季アジア大会優勝、全日本選手権2年連続表彰台など着実に実績を積み、トップ選手の仲間入り。そして、24歳となったバンクーバー五輪シーズン。GPシリーズ2戦(3、4位)を経て迎えたのが、全日本選手権だった。
大阪・門真、なみはやドーム。五輪切符を巡る日本フィギュアスケート史上屈指の激戦は、この舞台で繰り広げられた。