2つの東京五輪支えた77歳男性のボランティア物語「人のお世話にならず人のお世話したい」
「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。今回は、大会を支えるボランティアに着目。77歳の村岡亮道さんは1964年東京五輪の開閉会式で選手の先導役を務めて以来、2度目のボランティア参加となった。57年ぶりの国立競技場に感じた想いとは。(取材・文=THE ANSWER編集部)
「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#70
「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる様々な“見方”を随時発信する。今回は、大会を支えるボランティアに着目。77歳の村岡亮道さんは1964年東京五輪の開閉会式で選手の先導役を務めて以来、2度目のボランティア参加となった。57年ぶりの国立競技場に感じた想いとは。(取材・文=THE ANSWER編集部)
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「まさか2度目が来るとは思っていなかった」。ボランティアのブルーの公式ウエアに身を包んだ村岡さんは感慨深げに語った。
神奈川・平塚市在住。東京五輪のボランティアに応募したのは3つの理由があった。
村岡さんは防衛大学校の2年生のとき、1964年東京五輪の開会式と閉会式において、選手団の先導という支援を行った。当時はボランティアという日本語はほとんど知られていなかった。もともと「ボランティア」とは「志願者」の意味で、主に社会的な奉仕活動を指す現在のボランティアとはやや異なり、印象としては支援という言葉に近かったという。
その選抜方法も独特だった。64年東京五輪は10月10日に開幕した。秋に差し掛かっているとはいえ、暑さも残る季節。体力・気力に優れた大学生に白羽の矢が立ち、防衛大学校の中では1、2年生から希望者が募られた。
全員がボランティアとして参加できるわけではなく、身長は約160センチ以上と制限があった。さらに過酷な耐力テストがあった。
「夏のクソ暑い中、防大の夏休みを返上してトレーニングやるんですよ。日陰のない暑い夏空の下に2時間、立ち続ける。それで倒れた人は除外になった。そんな選抜過程を経て、93か国を先導する93人が最後まで残ったわけです」
村岡さんは開会式と閉会式でイスラエル選手団のプラカードを持って行進した。
57年ぶりとなる2020年東京五輪のボランティアに応募したのはほかにも理由もあった。
村岡さんは大学卒業後、航空自衛隊に入隊。34年に渡り、パイロットとして日本の空の安全を守り続けた。
1998年長野五輪のとき、村岡さんが基地司令を務めていた浜松基地からアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」が飛び立ち、基地は五輪を裏から支えることになった。今回の東京五輪のブルーインパルスは6機編隊。その先頭機はブルーインパルス仕様に改造する前の機体で「T-4」と呼ばれる練習機だ。村岡さんが長いパイロット人生の一時期、搭乗していたのがそのT-4だった。