松田直樹を忘れない 10年目の8月4日午後1時6分に姉が綴る想い「弟のような事もう起きないで」
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年8月2日、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れた。その日は通常の大学病院に隣接する練習場ではなく、郊外の施設。AEDがなく、搬送に時間もかかる不運が重なり、2日後の4日に帰らぬ人に。34歳の若さだった。
連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」14通目 姉・松田真紀さん
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年8月2日、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れた。その日は通常の大学病院に隣接する練習場ではなく、郊外の施設。AEDがなく、搬送に時間もかかる不運が重なり、2日後の4日に帰らぬ人に。34歳の若さだった。
早すぎる別れから、もう10年――。節目の年に合わせた「THE ANSWER」の連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」。その功績と人柄を語り継ぐため、生前の松田さんとゆかりがあった関係者が、天国の背番号3への想いを明かす。10度目の命日を迎えた8月4日、最終回は姉・松田真紀さん。家族として見続けた松田さんの素顔と現在の想いを明かした。さらに、循環器内科で心臓疾患を担当する看護師として、一般財団法人「松田直樹メモリアル Next Generation」でAEDの普及活動にかける胸中を綴った。(構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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今、この記事が掲載された8月4日、午後1時6分。直樹との別れから、ちょうど10年が経ちました。
10年という月日は、人の記憶を薄れさせるもの。にもかかわらず、今もスタジアムで直樹のフラッグを掲げてくださるサポーターをはじめ、変わらずに想い続けてくださっているファンや選手の仲間の皆さんには感謝しかありません。
また、そうした想いを様々な企画やイベントで繋げてくださっているJリーグさん、横浜F・マリノスさん、松本山雅さん、本当にありがとうございます。本人はまだまだやりたいことがあったと思いますが、幸せなサッカー人生だったと思います。
8つ下として生まれた直樹は、小さい時は本当に「かわいい弟」でした。
私は根っからのジャイアンツファンだったので野球をやってほしかった。でも、いろんなスポーツをやりましたが、最後に選んだのはサッカー。今になってみると、正しい選択をしてくれたと思います。
家にお客さんが来ると「ポカリスエットとアクエリアスどっち飲むー?」なんて聞いてきて、似たようなものじゃんと笑いながらも、世話焼きで。高校生になると反抗心が芽生え、些細なことでよく喧嘩もしました。似たような性格なので、互いに引かない。
でも、優しい一面もあったんです。U-17日本代表の試合を都内でやった時、東京で生活していた私は観に行きました。私が姉なのに「これで帰ってね」と交通費を渡してくれて。普段は口の悪いことばかり言ってきましたが、家族想いなところがありました。
忘れられないのは、2011年の東日本大震災。当日は患者さんの対応に追われ、携帯電話を見たのは夜になってから。直樹から何度か着信が残っていました。かけ直すと「大丈夫?」と。両親のこともよく気遣っていたみたいです。
松本山雅の試合を観に行った時に話したことはありますが、電話で交わした会話はそれが最後になりました。だから、未だにその声が忘れられず、直樹の携帯電話の番号は消すことができずにいます。
選手としては、高校からJリーグの横浜マリノスに入団し、アトランタ五輪やシドニー五輪、日韓W杯にも出場しました。家に帰って来ると、弟そのままですが、ピッチの姿を見ていると、別世界の人になったんだと。
日韓W杯やリーグ優勝、マリノス最終戦など、思い出の試合はたくさんありました。ただ、今は当時の映像をたまに見ると仲間とハグしたり、「勝ったー!」と喜んだり、一つ一つの何気ないシーンにこみ上げてきます。